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語が先か、文が先か

前回プラトンの『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)を読んだのだが、解説の中で訳者の渡辺邦夫は母語習得における「文の一次性」という現代哲学的な論点が『テアイテトス』において提出されていると述べていた(同書465頁)。
ここら辺の話がピンとこなかったのだが、参考文献として野矢茂樹の『哲学の謎』(講談社現代新書)が紹介されていた。なら読んでみよう、というのが今日の話だ。
本書は対話形式で書かれており、話し言葉で議論が展開されていくユニークな哲学入門書である。本稿では7章「意味の在りか」の議論を見ながら「文の一次性」ということについて考えていこうと思う。

まずは7章の要約をしてみよう。
議論は言葉への疑問から始まる。たとえば「犬」の意味を知りたい人がいる場合、犬について辞書で調べるよりも実物の犬を見せた方が早いかもしれない。しかし、その犬は特定の犬であり、一般名詞としての犬とは異なる。ここで、現実の個別的な存在者がどうして言葉としての一般性を持つのかという疑問が生じる。
犬一般を言葉として捉えると「犬」と発話することは個別的な行為であり、観念として捉える場合もイメージすることは個別的な体験である。ここから一般観念の存在自体にも疑義が呈される。だが仮に犬一般の観念が存在しないとしても、「犬」という言葉を使って会話することは可能である。
問題は「個と一般の矛盾」ではなく、「正しく言葉を使用する方法」にある。たとえば「リンゴをとって」と言い、実際にリンゴを取ってもらえたら、その言葉を正しく使用できたことになる。次に「リンゴを洗って」、「リンゴを切って」と命令を重ねると、学習者は「リ・ン・ゴ」という共通する音に気付き、言葉を学習する。このように、言語習得において語を覚えるのは文の後である。
しかし、すべての言語現象で文が語に先行するともいえない。言葉が使用されることで意味を持つように、物の名前も使い方の手本を示されることで一般性を獲得する。たとえば、棒が地面について歩くという使い方を示されることによって杖の意味を帯びるように。これは音声言語や文字言語とは異なる、言語の「現物言語」的性格であるといえる。以上から、言語現象には音声言語・文字言語から始まる局面と、それ以前の局面とがあると考えられる。

以上が7章「意味の在りか」の要約である。「言語習得において語を覚えるのは文の後である」というのが「文の一次性」なのだと一先ず解して、ここからもう少し考えてみよう。

言語学習において文と語とでどちらが先かと問われれば、語が先だろうと答えるのが(不用心な言い方だが)常識的かもしれない。これは言語とは何かと考えた際に、言語の構成要素としてその最小単位を語と見なす、ある種の原子論的観点に根ざした態度である。あるいは音節、字母という風に単位を更に細分化することも可能だろう。
要するにこれは、語という要素が集まって文という全体を構成しているという考え方である。換言すれば「語は文に先立つ」という通念は部分から全体への推論に立脚している。

これとは反対の考え方を提示した本書の議論を振り返ると、「リンゴ」という語の学習はリンゴに関する様々な命令を遂行する形で実現されると考えられていた。「とって」、「切って」、「洗って」というような多様な動詞に対して、「リンゴ」という共通する名詞が発見される。なんだかリンゴが共通因数になっているくくり出しみたいだ。
共通性という観点に立つと、これまで考えてきた「語と文」の「語」は単数形(word)で、「文」は複数形(sentences)で考えるべきであろう。一つの語と複数の文という関係に着目すれば、「文は語に先立つ」という考えは多から一への推論に立脚しているといえる。

……形而上学っぽい解釈になってしまった。この議論はたぶん、そういう問題ではない。軌道修正できるだろうか。

「一と多」の観点を利用して「語と文」の問題を考えるとき、一なる語は何らかの一般性をもちうるだろうか。語の意味は言語使用の繰り返しにより確認することができる。だが、それでも語の意味は蓋然的であり、普遍性を獲得したとまではいえない。いうなれば、言語使用の繰り返しは話者の相互間において語の意味を帰納的に推定しているにすぎない。
ネガティヴな物言いになってしまったが、こう考えると、母語習得という限定された場面で考えられていた文の一次性は、もう少し広い領域で成立するのかもしれない。それに、超越論的な議論に持ち込まずとも言語について考えることが可能になるだろう。

……これくらいにしておこう。ウィトゲンシュタインをちゃんとやっておけばよかった、というのが今日のオチか。
最後に、今回読んだ『哲学の謎』全体の話をしておこう。本稿では7章の議論のみを扱ったが、本書はもっと広い領域をカバーする哲学概論的な本である。だがむやみに専門用語の解説などはせず、読者を簡単にわかった気にさせてくれない。きっと自覚的にそのつもりがない。少し意地が悪いが、そこが誠実だと思う。
本書の「はじめに」で「大事な問題を、へぼな答えで謎としての生命力を失わせないよう、謎のまま取り出してみたかった」(5頁)と語られているが、これが本書の根本動機なのだろう。洗練さを拒否し、粗野を諒とする。ちょっと格好いいなと思いつつ、でもしっかりトドメは刺したいなと思うのは邪だろうか。

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