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No.23 『檸檬先生』十八歳の若き文豪が生み出した傑作

私の十年来愛した女性は、今私の目の前で細い四肢を投げ出し、切れ目の瞳をだらりと開けて倒れている。微動だにしない。ただその美しい黒の瞳で、アスファルトの地面だけを見つめている。私の血がついた膝は広がり続ける赤黒い水たまりにじっとりと濡れ、その中心に彼女は浮かぶように沈んでいた。絶命している。


偶発的にも、若くしてとてつもない文才を秘めている本に出会ってしまった。
その著者の名前は、珠川こおり。なんと18歳らしい。わけえ。

皆様は最初の、『檸檬先生』の書き出しであるこの文章をもう一度読んでみてほしい。これが18歳が描くことのできる世界なのだろうか。
かの有名な村上春樹は、30歳でデビューしたと言われている。他にも名前は忘れてしまったが、40歳で…という方もいたように思う。その年でデビューして、そこから作家としてのキャリアを創っていくのも十分に凄いのだが、
18歳でこんなにも人を引き付けることのできる物語を描けるのは、別のベクトルで凄い。

というわけで、なぜ私がこんなにも彼女(多分女性)の物語に惹かれたかというのを、私のできる限りの力を持って皆様に伝えたいと思う。


共感覚

この本のテーマははっきりとしていて、それは「共感覚」というものだ。
私は音楽をやっているのでその単語自体は聞いたことがあったが、中にはこの単語すら聞いたこともない方が多いのではなかろうか。
作中で共感覚は、「音に色が見えたり、その逆だったり、数字や図形が色に見えたりすること」との説明を檸檬先生がしている。

レ、レ#、ミ、ソ、ソ♭、ソ#、オクターブ上がってソ#、ラ、下がってラ、基準のド#、ド、また上がってレ♭。
きっと誰もが嫌う音階。しかし私にはいたく美しいものだった。
父が教えてくれた十二色相環、それが音にはまってぴったりと瞼の裏に焼き付けられる。黄、黄緑、緑、青緑、緑みの青、青、青紫、赤紫、赤、赤橙、黄橙。音階が滑らかなグラデーションを描く。色相環を見るとこの音階が思い浮かぶ。この音を弾けば色相環が思い浮かぶ。


物語の主人公である「僕」と「檸檬先生」は同じ学校に通う生徒であり、互いに共感覚の持ち主だ。そして共感覚のことを言語化できていなかった「僕」に、「檸檬先生」は色々なことを教えてくれる。
「共感覚」という、誰からも分かってもらえない感覚を共有したことで彼らは次第に関係を深めていく。


これだけ説明されると、共感覚がテーマの学園物語だと受け取る方もいるかもしれないが、この共感覚、どうやらそんなに甘い代物ではないらしい。


小学生である主人公と檸檬先生は共感覚のせいで、普段生活しているうえで受け取る音や会話などの様々な刺激を、普通の人より多く受け取ってしまう。
それが原因で主人公は「色モノ」と呼ばれ、檸檬先生はバケツの水をかけられ、いじめられる。本人たちには全く悪意のないこの共感覚は、他人からすると「普通ではない人」になってしまう。

「私は芸術家になりたい。でもこれは誰にも理解できない。たとえ共感覚を持っていても、波長が合わないやつの方が多い。他の誰かが見たところで、わたしはただのおかしなやつなんだ。」

檸檬先生が発したこの台詞からは、共感覚であることへの誇りのようなものは感じられず、分かり合える人がいない辛さ、諦めのような感情が読み取れるだろう。


共感覚の克服と、檸檬先生との乖離

ここまで見ていくと、どうやら希望のキの字も見えなさそうだと思うかもしれないが、主人公と檸檬先生はお互いに協力して、共感覚を克服しようとする。

どうやら共感覚は全ての物=色になるのではなく、普通に受け取ることが出来るものも存在しているようだ。ただ、それらの判別は個々人で異なるらしい。
それを知った主人公は、頭の中に常に檸檬先生の存在を感じることで、ぐちゃぐちゃになってしまう感情をつなぎとめようと試みるのだ。

「お前は、私のことだけ考えてな。ずっと、四六時中、何をするにも私のことを考えて。それ以外は見ちゃいや」

ここでの檸檬先生の台詞はとても印象的だった。もし実写化でもされたら、こんなにかっこいいセリフを誰が言うのだろう。てか人生でこんなセリフ、一度でいいから言ってみたいわ。

檸檬先生のことを考えることで、少しづつ外界に慣れ始めた主人公。
しかしその一方で皮肉なことに、檸檬先生との心理的距離が離れていってしまうのだ。


読んでみれば分かると思うのだが、この作品で彼らが直面する問題は、共感覚だけではない。
主人公は「バイタの息子」と呼ばれており、主人公の家族関係に問題が、檸檬先生にはトランスジェンダーであり、家が世襲制という問題がある。
冷静に見るとすげえ問題抱えてるなあって思ったが、一見盛りすぎのような設定によって、この作品の芸術性を高めているのではないかとも感じた。
そしてこの檸檬先生のトランスジェンダー的要因が介することで、主人公と檸檬先生の間に溝が生まれてしまうのだ。


ここで私が一つ疑問に思ったことは、

「なぜ主人公は共感覚を克服していったのに、檸檬先生との乖離が起こってしまったのだろうか?」

ということだ。主人公が檸檬先生を思い浮かべることで共感覚に慣れ、いろんな人にも分かってもらえていろんな人と関わるのと反比例して、檸檬先生との距離は離れていってしまう。
主人公が共感覚を克服して普通の生活を過ごせているのは確かにとても成長したと思う。

ではなぜ檸檬先生とは分かり合えなかったのか?

私なりの意見としては、檸檬先生が抱えるものの大きさが、主人公とは違ったためではないかと思う。
彼らは多くの問題を抱えていたが、主人公の「バイタの息子」というのはあくまでも外的なものであって、しかも運のよいことに終盤では夫婦が一緒になってハッピーエンドになる。
しかし一方で檸檬先生の方は、「共感覚+トランスジェンダー」という、世襲制という外的なものに加えて二つもの内的な問題がある。

「本当は私は男になりたかった。私、もしかすると恋愛対象も女かもしれないって、そう言ったらさ、もう次の日にはこんなんよ」


檸檬先生がトランスジェンダーであることは割とはっきり示されており、先生が抱える感情、問題は実際、「僕」の比ではなかったんだろうなと思う。


「私は結局芸術家にはなれなかった。だれも私を見ないし、だれも私を理解できないもん」
「見てないよ、見てたのは令嬢の私だよ。俺を見てたんじゃない」
「少年、私はやっぱりひどい奴だった。お前のこと嫌いじゃないよ。少年は私の唯一だったから、でもお前は今たくさんの人間に囲まれている、私はお前の唯一じゃないでしょ。結局、全部そういうことだよ。世の中には何十億もの人間がいて、その中で出会うのはたった数百人で、それでお互いにいい感情を共有できるのは、ほんの一握りなんだ。さらにそれが唯一になるのはゼロに等しい。人間はモノクロで、相手の心なんて読めないから、そうなんだ。ねえ、ねえ少年」


最初に見たように、少年は檸檬先生への恋愛感情を内に秘めていた。
しかしそうして檸檬先生に近づこうとするたび、先生との距離は離れていってしまった。

じゃあどうすれば先生は死なずにすんだのかとか、先生にもっと近づくことが出来たのかとか、そういったことは当人にしか分からない。
けど少年は先生とずっと一緒にいたかったし、先生は誰かに理解されたかった。女としてではなく、いろんなモノに隠れて見えなくなってしまった本当の自分を。

最後に先生が飛び降りたのは先生の唯一のわがままで、最初で最後の、この世界へのあらん限りの抵抗だったんじゃないかと私は感じた。
私はこの結末とここに至るまでのこの作品の力強さと、その中にある繊細さにとても心を打たれた。


おわりに

昨今いろんなテーマで「多様性」が取り上げられる中、「共感覚」という新しい物語を描いた天才作家、珠川こおり。

彼女がこの次、いったいどんな作品を世に出してくれるのか。私はこの作品を通じて彼女の存在を知り、作品から物凄いパワーをもらった。
この強烈なパワーを生み出してくれた作者に多大なる感謝を述べるとともに、作者の新たな作品を読めることを願いたい。
最後に作者の「第15回小説現代長編新人賞受賞作」のインタビューから抜粋して今回は終わろうと思う。皆様も是非、この作品からのパワーを実際に読んで感じて受け取ってみてほしい。

辛い、苦しい、死にたいという感情はどうしてかすぐに心からあふれ出して私たちを支配します。生きたいと思うのは難しいことです。人生で一番大変なことは、生き抜くということかもしれません。
『檸檬先生』は決して明るい物語ではありません。それを読んで嫌な気持ちになる人も、きっと大勢います。でも負の感情も、正の感情も、未来につながりゆく感情です。私はそうして、掌大の星のかけらを紡いで、一秒分の光で人を照らしたい。自己満足かもしれない、けれど、紡いだ欠片が、一秒分の勇気になって、それが積み重なって、生きる希望になることを願っています。



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