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ホン雑記 Vol.17「救生主」

言葉の持つ力は本当にすごい。
2000年前に書かれた新約聖書の中に、

はじめに言葉ありき
言葉は神と共にあり
言葉は神なりき

という一節があるが、そんなことに2000年前から気づいた者がいるというのもまたすごい。


人間の次に知能の高そうなのはオランウータンかチンパンジーか。
彼らとは一線を画した頭脳を持つ人間だが、その歴然たる差の最大の要素は言葉の有無だろう。
このツールを持つか否かだけの差が、片方を地に這わせおいたままにし、片方をもはや神のごとき業を揮うまでに押し上げた。

この二者を分けた原因はいったいなんだったのか。
それは、各々の祖先が常に二足をもって歩くことを選んだか、そうでないかの差だ。

立ち上がった我々の祖先は、前足を手へと変えた。
そして、手の常時使用が脳の領域を変えた。複雑な動きを制御する何かが必要だからだ。オランウータンは道具の存在を知っているが、人間との大きな違いは、道具を作るための道具を作れないことだ。
つまり、未来を見通すことができない。

人間はその増えた領域を言語の制御に使い、それによって過去と未来、つまり時間の認識などを手に入れた。
こうして、手を使うということが爆発的な脳の成長、知の概念の段違いの飛躍を引き起こした。


言葉の持つ御業は現代にも続いていて、こうしておびただしい数の言葉が人々の間を行き来している。

映画化で名を馳せた「あん」の作者であるドリアン助川氏の他作品に「新宿の猫」があるが、その中に「選ばれていない時が、選ばれている時」というセリフがあった。

前後はあまり覚えていないが、小説を読んでいてそこにたどり着いた時に嗚咽に近い泣き方をしたことがある。
「あぁ! 助かった!!!」と思った。
別に溺れかけてはいないのだが、心のそばに救命浮環を投げ入れてもらったような、そんなハッキリと救い上げられた感覚があった。

このたとえ話のあとに話すのもなんだが、助川氏は多摩川のほとりに赴き、何度も死のうとしたことがある。
それは自分が作家として世に認められない苦痛からであった。
そして自分が少しばかり、世間一般とは違うという孤独からであった。

オレも彼ほどではないが、少しその気がある。
なぜ? という気持ちが人一倍多く、それを割り切れない問いの数が多い。
だから、過去の彼の苦しみが、まさに時空を超えて自分を救ってくれたと思っている。

笑われるかもしれないが、この時助川氏と、オレと、そしてその言葉自身は、その時その場所で使役させられることを薄々…いや、薄々というほど分厚くもないが、どこかのレベルで認識しているんじゃないのか、という妄想に駆られることがある。
なにか、こういうことが起こると過去で(未来で)待っていたような感覚。
自分でも、書きながらだいぶおかしなことを言ってる自覚はある。


さて、つける薬もなくなってきたので、今日はこのへんで。
世迷言におつき合いいただき、有り難うございます。




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