雑記1103「『俺たちはまた旅に出た』」
そういや若い時に比べて怒りの質が変わってきた気がする。
あんまり良くない方向に。
昔は当然ながらすぐ手が出たもんだし、いま思えば「そんなことで?」なんてことですぐにキレて来た。
そのおかげでヘタレなオレはイジメの類にも遭わんかったし、好きなとこで好きなように言ったりやれたり出来てたんだろうなぁと思うんだけど、なんていうんだろ、暴力から(昔なら誰もがやってたようなかわいい(誰もじゃないかもしれん))離れて久しくなると、なんとなく脳が暴力的で短絡的になってる気がするのだな。
昔に比べて怒りの矛先の数も深さも、だいぶ減ってる気はするんだけど、いまは浅い怒りのままに何も見えなくなって極端な行動に走りそうな怖さがある。気がする。あくまで気がするだけだけど。
そして、何も見えなくなるかどうかは自分の心の持って行きように掛かってる…つまり、自分の機嫌は自分で取るってことが、前にもましてだいじな感覚がある。
若い時はもう暴れるのは決まってたけど、で、いまはコントロールしやすくなったんだけど、善人に善人に~と常に思ってないと、若い時以上にひどい行動に出そうな感覚っていうか。
守りに入ってる感覚も増えたけど、「ま、どうでもいいや」なんて感覚も増えた。気がする。あくまで気がするだけ。
これはたぶん老害のはじまりで、つまりは前頭葉の劣化なんだろう。
で、その分水嶺の短絡加減はもうどうしようもないんで、怒らないようにしようって思うわけだけど、なんだか喜怒哀楽の境目も短絡的になってる気がして(気がしてばっかだな)、なんだかな~って感じ。
で、思ったんだけど、やっぱ世の老害事件って「いま正しいことをしてる」と思わずにやってるジジイは皆無であるよなぁってことなんだよね。確信犯(辞書通りの意味のほうの)ばっかなんだよ。
ということで、「自分は正しいのだ」「たいした者であるのだ」ということをもう二度と思わないようにして生きようと思うわけです。
が、これまたそういうふうに脳は出来てないんだね。
他人は自分より3割(ホントの程度はどうだかしらんが)ほど、劣ってるように感じるってプログラムが脳に搭載されてる以上、同程度のふたりが会えば互いに「まだ下にはこいつがいるよな」と恥ずかしいことをやってるわけだけど、よく考えたらま~ぁ必要なプログラムだわね。
このプログラムがあってなお、隣の芝は青く見えるんだから、これ他人がみんな3割優れて見える世界だったら阿鼻叫喚だよなぁ。
だから「こいつのほうが下だ」って安心してるのは、竹原ピストルが歌うようにそんなに敵然(造語)としたつながりじゃーないのかもしれん。
ということなんで、人と比べないようにして我が事に邁進する、しかなさそうです。ワテは。
13年ほど前にちょろっとプールの監視員やってた時に、詰め所に「片手に自信を、片手に謙虚さを」って訓が貼ってあったけど、いまだに覚えてるってことはその時ずいぶん納得したんだろな。
――――――――――――――――――――
【今週の過去分オリジナルソング】