見出し画像

ホン雑記851「ウジ神さま」

昨日は寝る前に、早う寝なアカンというのに、動物の「子食い」の動画を見てしまった。


見てしまったといっても、別に忌むべきようなことでもないんだけどさ。以前もそんな動画を見てたら、血の気が引くというか、ひどいっ! というか、なんとなく悪のイメージというか、そんな感覚に陥ったんだけど、今回はまったくそんなことなかった。
この言葉は自分で言うのもアホだし、なんとなく嫌味な感じがして嫌いなんだけど、「達観」してきたんだなぁ、と思った。
ま、普通に生きてればジジババになっていくほど自動的に達観していくもんなんだけど、達観とか悟りとか、どうも自分で言うのには恥ずかしいし、人に言われるのにはバカにしてんのか? と思わせるふしがあるよねぇ。この国だけなんかね。

子食いにはいくつも理由があるんだけど、まぁ、だいたい間引きと他のことを兼ねてるんだね。
他のことってのは、母親の栄養補給のためだったりとか、感染症を防ぐために腐る前に食うとか、外敵に子供の死臭からテリトリーを探られないようにするとか。

以前は、残虐で、愛がなくて、悪行のように見えたその行動がむしろ神聖に見えた。
神聖というか、明らかに神性が強い行動に見えたんだな。これは自分でも、達観したんだなぁ、と言ってるぐらいなんで他人さんに伝わるように筆舌に頼めるものでもないんだろうけど、とりあえず頼ってみる。


えーっとね。
まず、映画『おくりびと』から『納棺夫日記』を知って、その中での「腐乱死体に群がるウジが光って見えた」っていう概念を知ったのがだいぶ前のこと。そこでまず「ほえ~」っとなる。人間はそんなことを思えるのかと。
で、こないだボディファーム死体農場(絶対検索しないでね)っていうのを知って、人の死体の顔面からおびただしい数のウジが湧いてる写真を見てしまった、ってことがあった。

それからがん細胞や、我々人間のずっと使わない尻尾がなくなったことや、「土」というものは宇宙中で地球にしかないことなんかがフューーージョン!(合体)して、「あぁ! 循環させてるのだ!」と悟ったわけですな、ワテは。ふぉふぉふぉ。

カマキリのオスは交尾後にメスに食われて悲惨、とか思ってたんだけど、そういう感覚がどっか吹っ飛んでいった。
動きの止まったものや、役割のなくなったものを、天があの世(エネルギーだけの世界と言ってもいい)へ連れていく…実に過不足なく、連れていくんだなぁ、と感じた。

生命が死んでなければ連れていかれない。心臓やその他の内臓や細胞たちはその主を動かし続ける。
だけど死んだ途端に循環という「同じオペレーション」は「別の何か」に託され、それはウジが湧くことや親猫が子猫を食べるなどという行為によってなされる。

どうよこれ。まさに神を感じないだろうか。神はそれ自身では何もできないんで、そうやって肉体を持つ者や、言われんでもいちいち動いている原子の中の素粒子なんかを使って、物理作用を起こし続けている。
エネルギーのまったく漸減しない永久機関はこの宇宙にはないらしいけど、それならそのエネルギーはいったいなんなのだ?


と考えると、あまり悲惨なことってこの宇宙にない気はするんだよね。オレも一応人間なんで、まだまだ泣き叫ぶんだけどね。

だけど人から泣き叫びを奪うと、歓喜もまた認識し得ないんだろうなぁ。
やっぱ次も人間がいいなぁ。ま、ウジでもいいけどさ。




――――――――――――――――――――

【今日の過去詩リーズ】




サポート大歓迎です! そりゃそうか!😆 頂いた暁には、自分の音楽か『しもぶくりん』への「やる気スポンサー」としてなるべく(なるべく?)覚えておきます✋ 具体的には嫁のさらなるぜい肉に変わります。