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ホン雑記999「鉄は熱いうちに打ちたい。打っていきたい。打っていきたいと思う」

NHKでやってた竹原ピストルとNHK函館の向井アナウンサーの対談、良かったなぁ。ありがてー時代だわぁ。

その向井アナウンサーって人が、学生時代ピストルのボクシングのライバルだったってのもあって、タメ口ってのもなんかいいなぁって思った。テレビってああいう時、いいよねぇ。


そん中で泣くほど刺さったのが、ピストルの「歌う内容なんてどうだっていい」って言葉だった。

ふたり組フォークバンド「野狐禅」時代には、何かを伝えたくて伝えたくてステージに上がってた気がする。
だけどいまは、ただみんなの前で歌うのが好きでしょうがなかったあの頃に戻ってきた。
だからオリジナルでもカバーでもなんでもいい…。

ってなことを言ってくれた時にちょい泣きした。

最近抜け出しはじめてるけど、このnoteを書きはじめた3年前ぐらいから「何者かになりたい病」がひどくって発狂しそうだった。2年間ぐらいはのた打ち回ってた気がする。いや、毎日笑えてはいたんだけどね。それとは別に裏側にハッキリとあった。その恐怖と目を合わせないようにしてた。目を合わせないのもまた怖いんだけど。

それがちょっと前から薄らいでた。鍵盤練習2時間を必須にしたのも関係してる、のかもしんない。つまり「いまさらこんなこと必死に練習してもなぁ」っていう、あのよくあるタイプの諦めというか、事前の言い訳が完全にゼロになったのも関係してるのかも。
上で言った恐怖はゼロにはならないんだけど、こっちの諦めは完全にゼロになった。それは「諦めない」や「オレならやれる」が100になったわけじゃなくて、他にそれしかやることがないのだ、と逆に諦めた感じかもしれない。他のいろんな可能性がもう狭まってきて狭まってきて、「人生」と「音楽する時間」がニアリーイコールになってきた時に「そうはいうても死ぬわけにいかんしなぁ」ときたあたりで諦めがゼロになった。

オリジナル…要は個性にやたらこだわった。わががわがが、だった。
オレは長年、編集者や、間に入る人や、中間マージンや、評論家や、ファンなんかをめちゃくちゃバカにしてきた。まさに界隈の人ってやつで、そいつらに意味なんかないとまで思ってた。
だからとにかくオリジナルの歌にこだわった。クソみたいな歌が流行るのが心底イヤだった。

が、世界さんのほうから見たらオリジナルもクソもなく、どれだけ「これはとうとう見つけたヤツだぜ」と思っても、それは世界の切り抜きに他ならないのだな。
世界の起こす現象におこぼれをもらって、それを自分の中の自分なりの記者&カメラマンが編集しているにすぎない。自分だって単なる世界界隈の人なのだ。
だから、最近障害者アート(このくくりも好かんが。極めて子供っぽい人でも良いし)にやたら惹かれるんだろう。彼らには「良く見せたい」という編集気質が皆無で、世界の起こす現象のほうに近く見えるからだ。

なんてことを思う人なので、ピストルのいう「カバーでもいい」が沁みたなぁ。
そうなんだよ。音楽の授業のはじまる前後で弾くピアノに他の子が集まってくる時の愉悦。自分の心が勝手にわがの頭上に当てるスポットライトの麻薬こそが、何よりの目的…いや、目的かどうかなんてどーでもいいんだけど、ただそれだけが良かったんだ。
それは、いまだにツクリテを勝手に自負するオレだけじゃなくて、みんなにあるものなんだろうな。
赤ちゃんが子犬に触ろうとしたり、大人に上手に出来たねーと褒められて喜んだり、最初の友達との最初の打ち解けだったり、活字の中で冒険に出てみたり…。これらは全部創造とニアリーイコールなんだと思う。


あ~でも、昨日のテレビ観て、やっぱ作曲しようって思ったな。
それはもうめちゃくちゃ思った。




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【今週のオリジナルソング】




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