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ホン雑記 Vol.520「『家に帰るまでが遠足です』」

夏だ。善き哉。

夏と言えば『大長編ドラえもん』だ。そしてドラえもんと言えばオレ的にはこっちだ。
ドラゴンボールやワンピースなんかは、劇場版のほうがクソ…あ、いや、ちょっとだけマガイモノ感ただようけど、ドラえもんに関しては非日常を描いたこっちのほうが本チャンだと思ってるフシがある。

………。

今ふと調べてみたら重大な間違いに気づいた。
ドラえもん映画の季節、なんと「春」だった。完全に夏だと思い込んでいた。いやぁ、よー調べてみたもんだわ。夏はジブリのほうだな。


久々にコミックスで大長編のVol.8『ドラえもん のび太と竜の騎士』を読んだ。劇場版で2番目に好きなのがこの『のび太と竜の騎士』だ。
うん、やっぱりいい。なんだろね、このスケールのデカさは。たった1巻分なのに読後のホクホク感。思い出補正分も多々あるのかもしれないけどさ。

特にこの作品は思い出補正が強い。
小6の時に風邪をひいて、オカンが慰めに買って来てくれたこの作品まるまる雑誌になったヤツを読んだせいだ。アレはなんなんだろう、コミックスより先行だったのかな。後ろにプロゴルファー猿もちょっと載ってた気がする。
あ、調べたらいいのか。インターネッツはオレのものだ。

………。

おぉ、これだこれだ。

無題

なつかしーっ。こんなんだったこんなんだった。
へーっ、コミックスより先行どころか、映画公開より2カ月前に売られてたらしい。

ちなみにコミックスのほうはこんな表紙。

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竜騎隊士バンホー氏が結構ベールを脱いでしまっている。
「みんなもう映画は観ただろうから見せちゃってもいいよね」ってことなんだろうか。

この作品はそもそも、のび太が0点のテスト用紙をママに見つからないためにどこに隠そうかというところから冒険がはじまる。
秘密道具で地殻中の空洞を見つけそこにテストをしまうんだけど、いつもの仲間も呼んで秘密基地を作る。拗ねたスネ夫だけが部屋を遠くに作ろうとして、地底で迷子になり…
といったストーリーだ。

今見てみると、ドラえもんのすごいところはコミカルさなんだなぁと思わされる。
地底人と色々あって戦争にもなりかけるんだけど、また色々あってわだかまりが解ける。
ラストは竜騎隊士のバンホーが「地底に忘れた荷物は送り届けてあげる」→ママがヘンな小包を受け取って「キーッ!」→もう一度地底に行く道具を出してドラえも~ん、というオチ。あ、ネタバレしちゃっていいよね、思わず書いちゃったけど。まぁいいでしょ、オチ弱いし(怒られるで)。

子供の頃は気づかなかったけど、ここに藤本弘Fのほう氏のごくまっとうな大人像、そして慈愛の心を見るのだ。

つまりね、いつものドジなのび太の日常と、今回の夢のような冒険は地続きなんですよ、平坦に見える日常も同じ価値があるんですよと、そんなメッセージが含まれてる気がしてならない。

これは何も大長編だけでなく、普段のドラえもんの存在自体がそうだ。
今回ドラえもんとのび太がスネ夫が迷子になってるのを知ったのは、スネ夫ママが「お宅で二泊三日の勉強合宿をしてるんざましょ? ちょっと心配だけどドラちゃんが一緒なら安心」という流れからなんだけど、どう考えたら129.3kgのモノ言う鉄塊の存在が安心感をもたらすのだ。
それも体内に原子炉を埋め込まれた超兵器…あ、これはスネ夫ママの知るところではないか(原子炉の設定は、3.11以降大人の事情で無くなっているようだ。今は「何を食べてもエネルギーに転換する」らしい。それがええわ)。

登場人物たちも、四次元ポケットというヤバいブツの存在を知りながら、誰も虎視眈々と狙ったりしない。「フエルミラー」に紙幣を映そうなどと思いつくゲスな大人はひとりたりとも現れない(ゲスな大人です)。

これはジブリ映画にも見られる価値観だろう。『魔女の宅急便』の世界では、魔法使いの存在はちょっと珍しい程度。特段キャーキャー言われるわけでもない。
逆に、お掃除・お洗濯・お料理・お散歩できること、傘を差してレインコートを着られること、窓ガラスを拭けること、踊れること…がどれほど素晴らしいのかを教えてくれる。

日常のとんでもない価値に立ち返らせてくれる作り手は本当に偉大だと思う。



やっぱり、日常を描いたいつもの短編のほうが本チャンの『ドラえもん』なのかもしれない。




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