ホン雑記 Vol.142「持ち運んだり抱きしめたり」
人は、無いものの話はしない、といつかの記事で書いた。
虫を持ち出していいこと言ってたんだけど、タイトルから探せないのでどこかの過去記事に埋まっている。
まぁ簡単に言うと「人が想像したものや作った言葉は実在するよね」って話なんだけどね。このあたりに説得力を持たせるのに、「脳がなくて消化器官がある生物はいても、その逆はない(脳はあとからできた)」っていうことと、「腸は脳に次いで思考している」ってことを組み合わせると、確かに当たってそうだなぁ、なんて個人的にはすごく納得するんだけど、上手く人様に説明できる感じがまるでしないのでやめておこう。メンドくさいとも言う。
それとは逆に、すでに有るものだからその言葉があるというのもある。というか、これはごく当たり前の話である。いちいちこんなことを言う必要もないほどに。
そんなことをいちいち言ってみたのは、「寂しみ」という言葉ってないよなぁ、と思ったからである。
なんでないんだろう。あ、「虚しみ」もないな。
つまり、無いのだ。そんなことに心をとらわれて来た人がいなかった、いても言葉になって残らなかったんだろう。
じゃあなぜ「悲しさ」には「悲しみ」もあるんだろう。
「悲しさ」のほうは、雰囲気的な感じだったり、その度合いを表わすニュアンスが含まれている。「分かりやすさ」の「さ」のように、それが伝わる程度を表わしている。
「悲しみ」は「悲しさ」を抽出したエッセンスのような感じだ。より物理的で、名詞的だ。ふざけた言いかたをするなら、ちょっと持ち運びに向いている語感もある。胸に抱けそうな感じだ。
つまり、人は古来から、悲しみたかったんじゃないだろうか。
私はあんなにも深く、人を愛していたのだ、と。もうその人の肉体がなくなってしまった以上、自分の中にある悲しみを持ってしか、その人を深く感じることはできない。
愛が表紙から見たものであるなら、その裏表紙は悲しみなのかもしれない。中身はどちらも同じだ。
「寂しみ」がないのは、あとでいちいち反芻したくないからだろうか。寂しさには、なんとなく寂しい感じから、時には悲しみを超えるほどの冷徹な痛みまである。
悲しみは、何かが「有った」ことを表わしていて、寂しさは、何かが「無い」ということを表わしている。泣くこともできない感じだろうか。オレはまだ凍てつくような寂しさを味わったことがないのかもしれない。
ちなみに、「悲しみは胸に抱けそうな感じ」と言ってみたのは、長渕剛の歌詞からちょっとパクっていたりする。
で、終わらそうとしたら、「寂しみ」あるやん。
ま、滅多に聞かないから、今日書いたことはおじゃんにはならないじゃん?
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