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自己紹介1。~禍福は糾える縄の如し~

あ、初めまして、仲大輔って言います。

「え? 本名出しちゃうの? でぽろんでやってくんじゃないの?」
って僕の中の人が言ってるんですけど、Facebookも本名だしもういいかなと思いまして。

プロフで「測世士」とか言ってるし、誰だよコイツってなる人もいるかもれないんで、ちょびっと人物像を話させてください。

(ちょっと長いです。テキトーに読んでください)



さて、いきなりですが僕はいわゆる「落伍者」でした。
最初の就職はなんとか4年もったんですが、メンタルの弱さから辞めてしまいます。

そこから10年間のニート生活が始まりました。まさかこれほど拗らすとは思いもしませんでした。もともと、石橋を壊れるまで叩いて渡れなくなるようなヤツでしたが、どうやっても最初の1歩が踏み出せないでいたのです。

日がな暗い部屋で呑んだくれて、掲示板に悪辣な言葉を書き続ける日々でした。控え目に言っても、そう、クズでした。


ニートになって4年、そんな生活が祟って「重症急性膵炎」を患います。
自分の膵液が膵臓を溶かしていってしまうんですね。罹患者の死亡率は20~30%。投薬も手術もできず、絶飲食の日々が1ヶ月続きます。

体中に4本ほどの管が繋がれ、そのうちの1つは鼻から腸にまで達していて、命の天秤が最悪の状況のほうへ傾かないのをただ、寝ながら祈るだけでした。と言っても、記憶は朧気なんですけども。これが人生の中で最も肉体的にダメージを受けた出来事でした。


それから数年後、父親がうつ病を患い、この世を去ります。
人生で最も精神的にダメージを受ける出来事です。

父は58歳にしてまったく畑違いの仕事に変わるんですが、いきなり課長職でのスタート。

プレッシャーからなかなか眠れない日々が続き、ある朝突然部屋に入って来て「大輔! お前生きていけるんか!」と、ものすごい形相で起こされました。
そして、それ以上に今にも泣きだしそうな、今までに見たこともないような、悲しみを凝縮した顔でした。

何が起こったのか分からず、僕は一瞬で得も言われぬ恐怖のどん底に引きずり落とされました。付き合っている彼女の身に何かあったんじゃないかと考えたのもあり、その形相もあり、起き抜けということもあり、パニックで力が入らなくなりました。

父に付いて来た母親の「やめときーやいきなりー。ビックリするやろー」の声のトーンで、どうやら彼女に何かあったわけではなさそうだと思い至って多少動転は収まるんですが、目の前で何が起こっているのか意味が分かりませんでした。

どうやら普通ではない父の話を聞いていると、
「やっと、やっと分かったわ。大輔は神やからこれでええねん」と言い出しました。無口な父がずっと喋るし、何より内容がこれなのですぐ悟りました。

「オトンが壊れてもうた」

理解は付いて行かないですし、恐怖は増幅するばかりですが、1つ分かることがありました。「オレのせいだ」と。

壊れてからの第一声が「生きていけるんか!」だったので、彼が息子の今の状況をどれだけよろしく思ってないか(当然ですが)が、即座に腑に落ちました。仕事のプレッシャーもあったんだろうけど、やっぱり自分のせいだと思いました。


それからなんとか母と共に精神科に連れて行き、その場で入院が決まります。非定型精神病と診断されました。ただ数日眠れないというだけのことが、あっというまに精神を蝕んだのです。

生気のない他の患者たちと医師たち(そう見えてしまいました)に囲まれた、強化ガラスのドアの向こう側の父をひとり残して帰る時に初めて、身を引き裂かれる想いというのを知りました。わめいたかと思えば、頭の上で大きくマルを作ったり(OKのジェスチャー)して、それは見ていられませんでした。

それから2ヶ月後、精神も回復して退院するんですが、まだうっすらと、まだらボケしてる感じがありました。

そして「今日は寝れるのか寝れないのか」が人生の最重要事項になってしまった人間に安眠の日が訪れるわけもなく、薬を変えても良くはならず、ほどなく、父は自らの命を見限りました。

その報せを受けて、人生で初めて、なんとなく「地獄」という単語を自分にリアルに重ねたようなイメージをしました。これは現実じゃない、こんなことがあってはならない、と思いました。

母は親戚や知人に電話をかけるたびに泣いていました。心の動かない僕はそれを見て、初めての経験なのに、「羨ましい」と恐怖の底で思っていました。


それからは、圧倒的な罪悪感と劣等感と恐怖が人生を襲い続けました。
白髪が増え(膵炎の時もですが)、体重も8kg減り、またネットで調べ物をするたびに、負の情報ばかりが頭に蓄積されていきました。

「子にとって親の自死による悲しみは、それが父親である場合のほうが影響が強い。そして一番影響を受けるのは第一子である(ひとりっ子です)。尚、男子のほうがその影響を受ける」

「親が自死するということの影響は思いのほか大きく、その子供の自殺率は、そうでない他の子に比べて24倍である」

あまり大層な言い回しは好きじゃないんですが、そういう文章を見ると、冷たい鋭利な何かで刺されているような感覚に陥りました。「自」という文字も見れなくなりました。

そして、たとえば勉強で分からないところが、突然脳内の回路が開いて「そうだったのか!」と理解できることがあるように、それと同じレベルで「そうか、自分も自殺する人間なんだ!」と確かに理解するんですね。
それは周りや、今の自分が見れば間違いだと分かることなんですが、はっきりとした理解の感覚でした。まるで自分で自分に掛けた「呪い」のような。

父の「生きていけるんか!」の言葉もまた、呪いをさらに深いものにしました。「そうか、オレは生きていけないのか」と。

それから1年半ほどは、いつも隣にある、たとえようのない、闇に引き込まれるかもしれない恐怖に苛まれていました。自分は気が狂ってるかもしれないと思ってるので、電車に乗る時もホームの真ん中あたりにいました。


少しずつ呪いが解けてきたのは、自死者遺族のブログ、数多の本、「ありがとう」の文字で埋め尽くしたマイペットボトル、日々重ねられる滂沱たる涙、そして周りにいる人間たち… 僕の最強の軍団のおかげでした。

また年月を経て、彼女に仕事のツテを紹介してもらい、その職場で子供の頃のようにバカ話が出来る友に出会い、今は色んなことに挑戦したいと強く思い始めた時でもあります。その挑戦の1つがこのnoteです。


父の死からもう14年が経ちます。薄皮をはぐように傷は癒えていきました。ほぼ癒え切ってしまっています。癒えすぎだろ、と思うほどに。

人生で最高に幸せだったのは、長らくの間、小学校高学年の時でしたが、今がそれをどうやら更新してしまったようです。
ちなみに当時の彼女は妻となり、想像を絶する勢いで横に成長しています。



タイトルに掲げた言葉は、僕の座右の銘です。

災いと幸せは、より合わせた紐のように絡み合っていて、その様相からはどちらの紐がいい出来事なのか、今現在の自分には判断できません。
「生きていけるんか!」の呪いも、今の自分は「祈り」だったのだと思えるんですが、当初は本当に一瞬も思い出したくない音と画でした。

膵炎の時に僕は自殺を完了しています。
いや、実際の出来事としては「ICUで朦朧となった頭で、なんとか力を振り絞って鼻のチューブを引き抜いた」ということに過ぎないんですが、自殺とまったく同じエネルギーで引き抜いたんです。
寝たきりで1週間悩みぬき、心の中でいろんな人とお別れを済ましてから引き抜いたんです。(これも実際にはたった1日の出来事で、時間の感覚がまったくない)

この経験があったおかげで、本当に自ら逝く人の心の痛みが、実はそれほどのものではなかったんじゃないか?(オトンすまん)と、思えるんです。
実際に僕も自殺して、ベッドの上で「あぁ、また生き恥を晒して行くのかぁ。マジでかぁ」と目覚めて、その上で生きてる感覚なので。

だから、たまたま生き残った僕と、たまたま行き切った父(般若心経じゃないですが)の、絶対的な隔たりのようなものを感じにくくしてくれてるんですね。途轍もない罪悪感があるにはあるんですが、それでもだいぶ薄らいでいたんだと思います。

そして父の死を乗り越えたおかげで、以前の自分では考えられないほど優しくなれたと思っています。
目の前の落ち込んだ人が実はもう崖っぷちにいて、なんらかのはずみで死んでしまうんじゃないかと、職業病のように考えてしまう癖だけは癒えていないんですが、それはなかなかお気に入りの傷痕だったりします。
それに復活の道すがら、手に入れた考え方は数えきれないほどなのです。


うーん、長い文字数を費やして何が言いたいのかよく分かりませんが、
結局僕は「生きろ」ってことを今ギリギリの人に言いたいんだと思います。

どうせその苦しみの裏側には、いい出来事がより合わさっているんだから。



うわ、ホント長いですね。
読んでくれた奇特なあなたに、ありがとうございますm(_ _)m




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