散文日誌「種々雑多」2021/09/20

今日は昔ファンだった小田和正の誕生日である。
彼は、大学で建築を学んだ異色の経歴を持つ。

畑違いー作物に合わない土壌に合わない作物を無理矢理植える。土壌改良でもしなければ、思った通りの収量は得られないことから、分野違いのところから、勉学を宗旨替えするようなことを言う。

痩せた土地を、有機肥料や腐葉土微生物を増やし、ふかふかの土にする。そうすることで、思うような収穫に近いものが得られる。実際そうなのだから、農家にとっては、畑違いの作物を植えることは、手間暇かかるし金かかる…。

だが人間には文化系であるにも関わらず、微分・積分がやたらと出来る、とか、理科系でもとてもたおやかで優しい文章を書く人がいる。畑が違っても手間に掛からぬ雑草のような人たちもいる。いつのまにか植っていたイヌサフランのように。

文化系か理科系か…そういうのは、私はどうでもいい話だと思っている。要は、自分の才能が眠っているところが、文化系、理科系そういう枠にはめようとする考え方が好きになれないのである。
学問は繋がっている。どこかで必ず合流する。例えば文系と言われている経済学も数学や統計学とつながっている。心理学も、解剖学と大いに関係がある。英語は、コミュニケーションの手段であるから、全ての学問とつながる。英語で数学を教えたり、日本の古語を教えたりする事も出来る。芸術にも境目はない。音楽は世界共通だ。絵画も、世界共通だ。詩歌も適切な訳が与えられれば、作者が感じたことを共有できる。

もはや、畑違いというのは、学問や芸術を生業にしようとする者に対して言うのは古い時代と言える。
おそらく自分なりに、たくさん勉強して、自分の得意分野を軟かく実り多い土地にして来たかもしれないが、誰でもその途上で迷うし、もっといいやり方があるのではないかと考えるだろう。生きるとは迷い道の中で、その時の最善の方法で切り抜ける事だ、と思っている人は、少し違う。最善ではなく、ギリギリで通り抜けられる方法を模索して、傷だらけになってもいいから、なんとかすり抜けられるという事だ。
自然淘汰は最適解を求めてない。生き残る可能性があれば、不恰好だろうが、小さかろうが、猛毒を身につけさせようが、深いところ方へ潜ってもらおうが、高い空を飛んでもらおうが、まさに、何でもありなのだ。もちろん植物も同様である。このアザミにだって、身を守るための棘がある。

それゆえに、人間界でも、卒業した学校に合わせた分野にだけ挑戦する、という社会というのは視野狭窄だと思う。困難だと言って挑戦させない、もしくはハナから理系の会社を文系は受けるなという制限を設けたりするという事も当然の如く罷り通る。それでは、学生自身が進化する可能性を、社会人になる段階で潰しているのと同じではないか?

また、発達障害の有無で選抜することも行われているとか、いないとか…。言っておくが、どんなに心理検査をしても、そう簡単に、企業様の欲しがるgiftedは見つかりませぬぞ。
彼/彼女達は、自分たちの望む条件でのみ、力を発揮できるのだから。それ以外がクズだというなら、選抜するお前らの方がクズだ。

元々勉強していたこととは違う分野で活躍するアーティストはたくさんいる。小田氏も学生時代から音楽を続けていたが、建築と音楽の間で悩み、結局音楽を選んだ。彼が学生時代から撒き続け、耕し続けた音楽という土壌で、約50年間人の心をフカフカにし続けている。
建築を学んだことで生まれた、巧みな旋律と優しさに溢れた歌詞を聴きつつ、畑違いも、活かし方によっては、如何様にもなることを、齢74を過ぎても光るハイトーンボイスが、それを証明している。

※本稿遅筆にて誠に申し訳ありませんでした。

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