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散文日誌「種々雑多」2021/11/25

あの日もこんな風に冷え込んでいた。いつも通りに、寒い中外にある風呂場へ顔を洗いに行った。しかし、寒暖差でヒートショックを起こしたのか、その場にバタンと倒れ込んでしまった。祖父は心筋梗塞を起こしたのだった。
一方の祖母は、身支度に風呂場へ行った祖父なかなか戻ってこないので、様子を見にいく。すると、ピクリともせず風呂場に冷たい床に倒れている祖父を発見する。慌てた祖母は、とりあえず、我が家に電話をする。

一方の我が家では、午前7時頃、電話がかかってきた。電話に出たのは、一番近くにいた私だった。電話の向こうの祖母が錯乱状態だったので、何かがあったことは察しがついた。受話器の向こうで祖母が「お父さんが〜‼️あ〜‼️お父さんが〜ぁ〜‼️」と半狂乱になって話していて、どうしようもなかった。私では処理できないので、とりあえず、母親に代わってもらった。

1997年11月25日の事をさもありありと覚えているのは、それだけ、祖母の錯乱状態が印象に残っているからだろう。それに、昨日まで、元気そうな祖父が、次の日には、冷たくなってしまったのだ。もっと話したい事、あったのに、何で急に逝ってしまうのか?祖父が私に無言で残したものは、隔世遺伝の形質。がっしりとした体格と、血管が細いところ。そして何より、一本気なところ。言い出したら聞かない人。字のうまさとか、そういうところは全く似なかった。そっちは、父親のほうに取られてしまった。

祖父が亡くなってから、墓参りに行くようになったのは、どこかで心残りがあるのかもしれない。威厳があったから、どうしても話かけづらかった。何てったってあのシベリア抑留から生き残った人なのだ。仲間の死をたくさん見てきただろうし、自身も辛い思いをしながら耐えてきた。仲間には精神を壊したものもいただろうー次の日には、自らの銃で脳天を撃ち抜いてしまった人もいただろう。

のちに祖父は、国から慰労の銀杯を贈られている。それだけ過酷な状況だったんだな…。海部さんあんたはそれを分かって送ってるんだろうな?

そんな祖父だったから、ふだんも無口だったし、しゃべりも、ボソボソっと言う感じで。喘息の気もあったのに、以前はかなりのヘヴィスモーカーだったから、しゃがれた声で、ようやく聞こえるくらいだった。私が、怖い人が苦手だったばっかりに、祖父に大切なことを聞きそびれてしまったように思う。もう少し、いろんな話を聞きたかった。旅行好きだった祖父の思い出話とか、現役の営林所の職員だった時のエピソードとか…。でも、もう聞けない。怖がらずに、勇気をを出しさえすれば、こんなに後悔することもなかったのにな。

じいちゃん、来年もまた来るね。

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