メタバストピアを希求する
メタバースについては、定義がいろいろあるのでまず辞書を引いてみます。
辞書にある通り、語源となっているハヤカワ文庫『スノウ・クラッシュ』の巻末の謝辞で作者のスティーブンスンは下記のように書いています。
"気に食わなかったから"。
原作が1992年なので、1987年に出版された『Human Interface Guidelines : The Apple Desktop InterfaceGUI』を参考にしたのでしょうか。
(GUIとはGraphical User Interface:グラフィカル・ユーザー・インターフェースの略で、現実世界のメタファーを用いることでアプリケーションなどの機能をわかりやすく表現する現在も主流のUIデザインです。パロアルト研究所で1973年に発明されたコンピュータAlto:アルトが最初の例だとされています。)
"メタヴァース"という用語の誕生の背景には、VRとGUIがあり、インターネットに繋がれたデスクトップの世界の延長線上にある3次元空間に、多地点から複数人がアクセスし、没入視点で操作するという世界観になっているようです。
もうひとつ発明された言葉、"アヴァター"についてはどうでしょう。作中で、主人公の1人の高速ピザ配達人ヒロは、リアルでは倉庫のような住処からアクセスしているものの、"メタヴァース"内では自分の顔を再現した"アヴァター"で闊歩できる凄腕プログラマーで最強の剣士という設定です。
この世界での"アヴァター"は、速度の遅い公衆回線からだとモノクロの姿しか扱えなかったり、お金かスキルがないと量産型を身につけざるをえなかったりしていて、現代で提供されている「メタバース」の予見的な表現になっています。
"メタヴァース"や"アヴァター"が「現実世界ではない世界/自分」であるというのも今につながる重要なポイントです。
フィクションの世界では、1989年にVPL (Virtual Programming Languages) ResearchのDataGloveを元にして書かれたと思われる岡嶋二人『クラインの壺』や、映画『マトリックス』、後の『レディ・プレイヤー1』(原作邦題『ゲーム・ウォーズ』)のように、ユニバースとメタバースの行き来によって話が広がります。
一方、現実世界で「メタバース」が定期的に盛り上がるのは、少なからない人々が様々な理由で、ここではないどこか、現実世界との連続性がないかもしれない、仮住まいの新世界を希求しているからではないでしょうか。
小説を読む、ゲームをする、SNSのコミュニティに参加することも、同じく別世界や別の人生への短い旅ですが、そのひとつ、もしくはそれらのメタ的な存在として"メタヴァース"が求められるとすると、想像力を視聴覚刺激が追い越せない以上、どんなにVR技術が発達してGUIが洗練されたとしても、人によってはコレジャナイ感が出てきます。
(もしかすると、チャットUIや生成形AIの発達、脳へのフィードバックの研究の先には、『はてしない物語』の後半のように、願ったり口にしたりするだけでワールドがつくられていく個人向け無限生成世界が広がっているかもしれませんが、そうなった場合、"社会生活を送ることができる" ためには、お互いの"メタヴァース"世界観の整合性の問題も考える必要がありそうです。)
「メタバースは幻滅期に入った」などとも言われていますが、個人的には、ミラーワールドのように現実世界のシミュレーションとして役に立つ仮想空間はこのまま実用化されていく一方で、社会生活を送る場所のような意味での"メタヴァース"は、技術というよりもユートピアと同じような概念であり、幻滅どころかある種辿りつき得ないもの(そしてサービスや居住者との出会いによってはすでにたどり着いている人もたくさんいるもの)だと考えています。そして、”行ったきり”になるものでもなく、”行って経験して帰ってくる”こともできる安全な逃避先なのだとも。
そういった意味で、時折見かける「メタバースに現実の人間関係を持ち込みなさい」や「メタバースより現実をよくしなさい」というメッセージやサービス設計は、時と場合によっては避難場所を封じることになり、けっこう残酷だなと感じています。
ここではないどこかのメタバストピアが、HMDをかぶれば立ち現れるかもしれない安心感が、現実を生きることの力になることもあると思うのです。
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