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メタバースの現在位置

「メタバース」という言葉のややこしいところは、人によって微妙に定義に揺らぎがあるという点です。おそらくその原因は、「メタバース」は「技術」ではなく「概念」であること、さらにこの概念自体が特定の現象やサービスに付けられた名前ではなく、既存のSF小説からのサンプリングであるというところにあると思います。

この機会に「メタバース」という言葉が、今のような使われ方をするようになったのはいつごろからなのか、そしてここ数年なぜよく聞くようになったのか?今後どうなっていくのか。「メタバースの現在位置」について、私見をまとめてみようと思います。

※筆者は、今日メタバースと呼ばれるようなサービスにどっぷりハマっているわけではない(個人的にノリきれないのも歯切れが悪い理由でしょう)ので、もし認識違いなどあればコメントでご指摘いただけますと幸いです。


第一期メタバース


「メタバース」史観としては、大きくは一期と二期に分かれると思っています。まずは第一期について。

個人的に「メタバース」という言葉をよく聞くようになったのは00年代中頃で、ちょうど日本で「Second Life」が話題になった時期です。

2008年にはGoogleが「Lively」という仮想空間サービス(いわゆるブログパーツ的に自分の部屋をはりつけられるというものでした)をローンチしたものの、同年のうちに開発終了してしまうということも、この時期に仮想空間というものがいかにハイプだったかを現しているのではないでしょうか。

そもそも「メタバース」という言葉は、Second Lifeより以前から使われる機会はありました。例えば2000年ごろにHabbo Hotel(今改めて見ると、後のアメーバピグやBondeeの源流といえますね)や、The Sims Onlineといった、ゲームというよりも「仮想空間の中で人と交流する」ことを中心に据えたサービスが登場し、Ultima Online(1997)やEver Quest(1999)といった、あくまでゲームを中心に据えたMMORPGと差別化する意味で「メタバース」という言葉が使われていたように思います。

当時私は、そもそもインターネット自体が「サイバースペース」と呼ばれることがあるように、ウェブは二次元で表示される世界だけど、テキストだけのチャットルームには明らかに空間性を感じたり、メッセージングサービスのオンラインのランプに確かに人の存在を感じたり、ドメインやディレクトリによって「領域」や「階層」を認識してしまうように、一度「インターネット的なリアリティ感覚」を身につけると、自然とウェブを空間的に認識してしまうという実感があったので、もはやウェブそのものがメタバースともいえるのでは?なんて思っていました。周りにも「せっかく時間と場所を超越するための技術を手に入れたのに、どうしてわざわざもう一度時間と空間を再現しようとするの?」というような冷めた意見が多かったように思います。


第二期メタバース


「メタバース」をIT用語辞典で引くと「多人数が参加可能で、参加者がその中で自由に行動できる、通信ネットワーク上に作成された仮想空間」とあります。辞書通りの意味では、00年代時点で(MMORPGも含むのであれば、90年代後半には)すでにコンセプトとしてのメタバースは、ほぼ実現していたといえます。(ちなみに第一期メタバースの各サービスにおいても、近年の暗号通貨のように分散管理こそされていないものの、プラットフォーマー管理の元、Habbo Credit, Simoleon, Linden Dollarといった仮想通貨での経済が成立していました)

では、なぜここ数年になって再び「メタバース」について語られるようになったのでしょうか?その理由と、第二期メタバースに期待されていることを明確にするために時代背景を整理してみましょう。

1)オープンワールドゲームの流行

Consumer Technology Associationが、北米を対象に実施したゲーミング市場調査「The Future of Gaming:2022」によると、北米のゲーマーは約1億6400万人。13-64歳の3/4を占めており、2019年には週平均16時間だったプレイ時間が、2022年には24時間に増加とあり、もはや「ゲーマー」であることが普通のことになりつつあることが示されています。

また、北米ではGTA(Grand Theft Auto)シリーズ(特に2001年に発売されたGTA3は全世界で1,450万本の大ヒット作となりました)をはじめとする、明確なゲームの目的が定義されていない、いわゆるオープンワールド型ゲームの流行を通して、特定の目的を達成するという遊び方ではなく、「用意された環境の中で各々が好きなように遊ぶ」という遊び方が広がりました。

2020年公開の映画「フリー・ガイ」は、こうしたGTA的なオープンワールドの中に登場するモブキャラ=NPC(Non-Player Character)を主人公にするというユニークな設定でした。作中にはオープンワールドゲームの「あるある」がギャグとして散りばめられています。2020年アメリカでは週末興行成績第1位。残念ながら日本であまり成績が伸びなかったのは、当時、北米ほどオープンワールドゲームがポピュラーではなかったからでしょう。

2)ネット接続者数の増加と真性同期型アーキテクチャの有効化

2000年ごろの状況から比較すると、インターネット接続者数が圧倒的に違う、ということも大きな違いです。第一期メタバースバブル真っ只中の2007年というのは、初代iPhoneが発売された年でもあります。そう考えると当時とインターネットの身近さの違いは明らかでしょう。

2022年に公開された総務省による「通信利用動向調査」では、インターネット利用機器はスマートフォンがPCを上回り、20~49 歳の各年齢階層で約9割がインターネットを利用しており、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)を利用する個人の割合は78.7%とあります。

社会学者の濱野智史氏は著作「アーキテクチャの生態系」の中で、2007年当時、日本においてニコニコ動画が人気サービスになった一方で、セカンドライフが廃れてしまった原因を、完全にリアルタイム同期型の「真性同期型アーキテクチャ」と、蓄積されたログなどを繰り返し再生する「擬似同期型アーキテクチャ」という、システムの型の違いによって説明していました。

セカンドライフは真性同期型アーキテクチャゆえに「閑散としている」ように見えやすい傾向にあり、その一方で、ニコニコ動画は擬似同期型アーキテクチャゆえに「活況を呈している」ように見えやすい、というものでした。おそらく2007年前半の(日本における)ソーシャルメディアの光景は、「セカンドライフは閑散としている一方で、ニコニコ動画は活況を呈している」と記憶されることと思われますが、それは単に「セカンドライフはつまらない/ニコニコ動画は面白い(つまらないものを面白くできる)」というだけではなく、「アーキテクチャ特性の差異」という点から理解できるということです。

濱野智史の「情報環境研究ノート」第12回 セカンドライフ考察編(7) :「いま・ここ性」の複製技術としてのニコニコ動画

当時、この分析は非常に納得がいくものでした。セカンドライフにアクセスすると常に「ビュー」という寒々しい効果音とともに閑散とした景色が広がっていて、他のアバターの姿はほとんど見当たりませんでした。一方、ニコニコ動画は常に「弾幕」と呼ばれる夥しい数のコメントが動画の上に展開され、バーチャルな「賑わい」を演出していました。(実際は、これらのコメントは擬似同期…つまり同時視聴している人が投稿しているものではなく、過去に動画を見た人のコメントが動画のタイムコードにあわせて再生されているという擬似的な賑わいです)

しかし、インターネットの接続利用者数が圧倒的に増えた現在では、以前よりもずっと「真性同期型アーキテクチャ」が成立しやすくなってきました。Twichやニコ生といった完全リアルタイム型の配信系サービスも活況のようです。真性同期型アーキテクチャのセカンドライフのようなメタバースサービスも、今ならそれほど閑散としない可能性があります。

3)VR技術の普及

2016年のOculus Rift発売以降、コンシューマ向けVRヘッドセットはかなり身近なデバイスになりました。VR技術の最大の価値はヘッドトラッキングとステレオビジョンを利用した「没入感」といえます。

これらの没入感を利用するアプリケーションとして、「現実をいかに擬似体験させる」方向からは、シミュレーターや、遠隔操作/遠隔存在感(テレプレゼンス)、報道/ドキュメンタリーなどのコンテンツが、「現実ではできないことを擬似体験させる」方向からは、ゲームや、VRムービーなど様々なアプリケーションが開発されました。

特に没入感とゲームの掛け合わせは、オープンワールドゲームの流行で生まれた「こんなゲームで遊びたい」に変わる「こんな世界で遊びたい」というニーズにフィットする技術であるといえます。

そんな中、2018年に公開された映画「レディ・プレイヤー1」はVR技術とオープンワールドを掛け合わせた世界をわかりやすい形でビジュアライズした作品でした。今日的な「メタバース」のイメージを決定づけた作品であると言えるでしょう。

※VR技術以前と以降のメタバース観の大きな違いは「一人称視点」でしょう。第一期メタバースではスクリーンを見ながらアバターを操作するような三人称視点がポピュラーでしたが、VRは没入感が重視されるため、一人称視点が前提となっています。

これらの「オープンワールドゲームの流行」「ネット接続者数の増加」「VR技術の普及」といった時代的背景によって、「没入できるソーシャル性に寄ったオープンワールド」への期待が高まっており、それが「メタバース」という言葉によってマーケティングされている、というのが(やや乱暴なまとめとは思いつつ)第二期メタバースの正体ではないでしょうか。

そして最後に、第二期メタバースへの注目度が一期にあがった理由として、2020年に人類が未曾有のパンデミックに見舞われたことは無視できません。

4)パンデミック

2020年3月のWHOによるパンデミック宣言以降、多くのイベントが中止や配信に急遽切り替えられる中、2020年4月にFortnite上で行われたTravis Scottのライブの成功は、イベント/広告業界で「メタバース」という言葉の期待値を押し上げました。パンデミックの影響でリアルに大規模イベントが開催できなくなった時、「バーチャルな賑わいがつくれる場」として期待値が高まっていた第二期メタバースが注目されたわけです。

この後、Grastonbury Festival、Electric Daisy Carnival、Burning Man、SXSW、東京ゲームショウなど、様々なイベントがオンライン会場としてVRChat、Roblox、Sansarといった既存のオープンワールドや、独自開発のプラットフォーム上で展開され、メタバース特需とも言える状況となりました。

しかし、この時期はステイホームの影響で生活者のデジタルシフトが半ば強制的に進んだ、明らかに特殊な時期でした。様々なイベントがその会場をバーチャル空間に移したのは、リアルイベントの実施が困難な中で、なんとか集客〜マネタイズするためでしょう。リアルイベントが復活しつつある今、はたしてメタバースというコンセプトがこれまで通り注目を集めつづけられるのか、その真価が問われる時期にあるといえます。


第二期メタバースへの懸念と期待


「過剰期待の頂」の先の「幻滅のくぼ地」とはよく言ったもので、過剰に喧伝された後には必ず冷静になる時期が訪れるものです。今、メタバースもまさにこの時期に差し掛かっているといえるでしょう。では何が過剰だったのか、考えてみることが今大事なのかもしれません。

今のこの状況は、メタバースという概念が固定化して広がる前に、メタバースの本質的な価値に目をむけず、VR/AR、没入体験、仮想化(デジタルツイン)、NFTなど、周辺にある振興技術を一緒くたに雑にまとめて担いでしまったことが原因であると私は思います。

2022年11月、とある世界的に権威のある経済誌の米国版に「メタバースがいかに我々の人生を変えるか」といったタイトルの記事が掲載されました。その記事には、メタバースが今後私たちの生活と働き方にもたらす変化として「どこからでも仕事ができるようになる」「すべての人、すべてとつながる」「集合知を活用できるようになる」といった内容が語られていました。太文字で。

これ、全て現時点で「インターネット」ですでに実現していることですよね…このように、何かしらの概念や技術が一度バズワードになってしまうと、なんでもかんでも雑にまとめて喧伝する人たちが現れて話をややこしくしがちです。

大事なのは、それぞれの時代で生まれる新しい概念や技術が私たちへなげかける問いへの回答=価値を自分なりに見つけ、そこから新しい体験を作ることだと考えます。(そしてこれは私たちがTHE TECHNOLOGY REPORTの活動を始めた理由の一つでもあります。)

「第一期メタバース」で問われていたものは何だったのか?私は、時間や空間を越えることができたインターネット空間で、視覚的に、あえて時間的・空間的制限を再現することで、「新しい賑わい」ををつくるという点であったと考えます。これはMMORPGでも実現しましたが、ソーシャルメディアに「タイムライン」が導入されたことによって、よりWWWらしい形で実現したともいえるでしょう。

「第二期メタバース」で問われているのは、私は、大量の同時接続を前提とした、VR技術以降のインターネットを探索するための新しいインターフェイスの提案だと考えます。VRヘッドセットやモーショントラッカーといったの身体性を取り込むことができるデバイスを前提にすることで、アバターへのより高い自己帰属感や、没入感を生み出せるようになった時、どのように情報を提示すると、より効率的に情報を伝えることができるのか、より人同士のコミュニケーションを活性化させることができるのか。ただ現実空間を模倣するのではなく、どのように新しいリアリティを生み出せるのかが問われていると考えます。

新しい技術を前提に、例えば、新しい「観戦体験」をどう設計するのか、新しい「人間関係」をどうやって設計するのか、新しい「教育」をどうやって設計するのか、こうした課題に対してのソリューションを「メタバース」という言葉でひとまとめにしてしまうのは勿体無い気がします。最初からメタバースを志向するのではなく、問題を解決した結果として/新しい体験を設計した結果として、メタバース空間が出現した、というのが理想ではないでしょうか。

この記事は、Dentsu Lab TokyoとBASSDRUMの共同プロジェクト「THE TECHNOLOGY REPORT」の活動の一環として書かれました。この記事の執筆者はTHE TECHNOLOGY REPORT編集チームの一員でもある、Dentsu Lab Tokyoの土屋泰洋です。

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