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静かで心地よい便利で甘い絶望

おはようございます。電飾の月書房の店主、のんでございます。冬の冷たさを感じ始めました。少々ゆっくり目です。懐かしい寒さです。

毎日のお祭り騒ぎを4カ月ほど続けている。ある人の言葉を毎日聴いている。瞬間輝く宝石のような言葉とそれ以外を仕分けをしながら聴いている。その区別は、時々で変わる。はからずも、その意図や意志を読み取る。それはそれ。

最近、絶望について考える。前の時代には、絶望は人を殺した。明るい絶望をしていた鈴木いづみでさえ、亡くなった。でも今は、絶望が人を生かす、なのではないかと、ぼんやり考えている。

愛着障害と、持て余すほどの感受性と、過剰な自意識で、生きづらい日々だった。正解がどこかにあると思い込んでいたし、正しくありたかった。死におびえながら、毎分死にたいと思っていた。その気持ちさえ、否定して、自分を責めた。

わかりづらい環境にいて、それでも確実に蝕まれていて、小さな絶望感を重ねていった。そんなことすら知らなかったけれど。

3年前の夏、主観的にも客観的にもわかりやすい、絶望的な出来事が起きた。不思議と死のうとは思わなかった。7ヶ月前には、死なないと決めている状態でODをして救急車に乗ったというのにも関わらず。渦中のことは覚えていないけれど、じわじわと湧いてきたのは、自分の人生を自分の手に取り戻した感覚と、圧倒的な自由。ただし、それは、壊れきった荒野に転がされた丸裸の赤ん坊のような、絶対的な頼りなさと孤独だった。

2月の末からTikTokで青年さんの投稿を見始めた。長閑な風景と淡々とした語り、それに反した壮絶な内容に目が離せなかった。自分のことでは泣けなくなっていたけど、泣いた。同情でも、共感でもなく、状況に泣いた。

初期の弱々しい好青年のライブから、少しずつ目が離せなくなって、今に至る。今では、コアなファンの一人だと思う。

TikTokのライブに始まり、青年さんは、最近では、Twitterのスペースで、人々の相談にのっている。私はただ目撃者になりたくて、追っかけ回している。他人が相談している様子を聞きながら、自分の課題が見えてきたり、心が癒されることがある。今までの謎が解けたりね。

彼は「背負わない投げ」の実践者であり、人に興味がなく、期待しない。自分も含めて人は不完全だと思っている。そして誰かにとっての正義は、他の誰かにとっての悪になることを、よーくよーく知っている。だから、自身がゴリゴリのうつ病でも、他人の相談にしんどくならずにのれる。これは私の想像だけれども。

そういう彼を見ていたら、最近「あ、私は絶望しているかも」と思った。ふんわり軽く、そう思った。

感受性のオバケみたいな私が、今はたいてい俯瞰して眺めている。「そうだよね、わかるよ」とさらっと言える。目の前の小さなことに、ものすごい幸せを感じる瞬間もある。

静かで心地よく便利で甘い、ふんわり軽い絶望のおかげなんじゃないかと思う。

ただの逃避だったら、ごめん。

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