虹のむこうに

玄関を開けると小さい老人がちょこんと座って待っている。慈郎は私に飛びついてきたりしない。もうそんな歳じゃない。
お母さんは買い物だろうか。制服を着替えて「散歩行こうか」というと、慈郎はよぼよぼした動作で自分からハーネスに腕を通す。
猿を飼いたいって駄々こねて動物愛護センターから引き取った時、慈郎はもうおじいちゃんだった。友達はみんな飼ってる、て言ったのはちょっと大袈裟だったし、ちゃんとお世話するから、なんて本心から言ったわけじゃない。それでも毎日散歩とご飯はそんなにサボってないし、春には狂猿病の予防注射にも連れて行く。玄関に貼ったメタルカラーの「猿」シールは今年でもう七枚目だ。
お父さんが生きてたら慈郎がうちに来ることはなかっただろう。お父さんと一緒に歩くと、なぜか町中の猿という猿から吠え立てられた。ワレラノ敵、って感じ。そんなことを思い出すのは、大きな手に引かれて歩いた河川敷を、今日は慈郎の手を引いて歩いてるから。
遠回りして家に戻ると、見慣れない履物が玄関にふたつ並んでる。何かを察知した慈郎が興奮し、唇をめくり上げて威嚇する。強くリードを引くと腕をかきむしられて、そこから血が滲んだ。
「綿霧の娘です。こちらはナヌヤバラとナヌヤメ」ほとんど使ったことのないケージに慈郎をなんとか押し込めると、お母さんは彼らに私を、私に彼らを紹介した。赤黒い肌の二人はリビングにかかった油絵に熱心に見入っている。空には虹がかかり、草原に猿でも馬でもない四つ足の獣が青い影のように佇んでいる絵。父の最期の一枚。
お客さんたちは、聞いたことのない言葉で互いに何かを確かめるように囁き合う。


在野の研究者で画才にも恵まれた綿霧多肉は、オセアニアに残る人類の古層に魅せられ少数民族を訪ねては数ヶ月、長い時には数年も彼らと暮らしを共にした。中でもナヌ族ほど綿霧を惹きつけたものはない。彼らの言語には「ナヌ」つまり彼ら自身と、ナヌと対をなす「イヌ」という単語が存在する。ごく限られた慣用句にしか用いられないこの単語について綿霧は次のように書き残している。
「イヌはナヌの不在形で、直訳すれば『去ってしまった者』を意味する。しかし、『ナヌが死んでもイヌは帰らない』という極めて独特なニュアンスをもつ慣用句からも明らかなように、ナヌとイヌを生者と死者のような状態変化の関係で捉えるのは正確さを欠く。彼らは不在概念であるイヌに家族のような親しみを注ぎ、自然や作物を司る精霊やナナゥ、つまり飼い猿たちよりも側に置きたがる。
これは私見だが、ナヌとイヌは目玉焼きの白身と黄身のように、もともとふたつでひとつの存在なのではないだろうか。なんらかの理由でナヌの一部が虹をくぐり(彼らはそう表現する)、手の届かないところに去ってしまった。その時ナヌのなかにぽっかり空いた穴を鋳型にして、去ってしまったもの――イヌという概念が生み出されたのではないか。
私がこのような考えに至ったのには理由がある。しかし、それを日本語やあるいは他のいかなる言語でも正確に説明することは極めて困難だ。だから私は絵筆に託すことにする」

綿霧多肉の娘である綿霧慈雨は、高校二年生の時に群馬の自宅を訪ねてきたナヌ族の生き残りから父の手記を託されたことが研究者としての原点だったと振り返る。しかし、ナヌ族は慈雨の誕生よりも前、多肉の調査の後一年を待たずに起こった大規模な山火事によりその血統が完全に絶たれてしまっている。綿密な調査によってその事実を明らかにしたのは慈雨本人なのである。去ってしまったものたちをめぐる円環にひとり取り残された彼女が出した答えは少々、突飛なものだった。
「あまり注目される分野とは言えないにしても、綿霧のナヌ語研究がオセアニア諸言語研究に新たな潮流をもたらしたのは事実である。しかし、そうした業績とは別の位相で、綿霧はナヌ特有の世界認識を体得していたのではないかと私は想像する。それはとりもなおさず『イヌを知覚すること』である。ナヌの人々はイヌという概念を生み出すことで、現実には去ってしまった片割れをあたかもそこに存在するかのように知覚していた。そして恐らくは綿霧も、ナヌ語を習得することによってイヌを知覚するに至ったのではないか。
願わくは、私もイヌに触れてみたい。しかし生きたナヌ語が地球上から永久に去ってしまった以上、それは叶わぬことなのだろう。せめて綿霧の遺伝情報の半分を受け継いだ者として、父の手記に書き足さねばなるまい。
ナヌとはかれら自身のみならず、我々人類そのものをさす単語ではないかと私は考えている。イヌを失った人類が我々であるなら、イヌと生き、共に進化を遂げた人類も多元宇宙のどこかに存在するはずだ。イヌが虹をくぐって去っていったのなら、我々も何らかの方法で可能性の分岐の向こう側へ航ることができるのではないだろうか。
あの日私に会いに来たナヌを名乗る客人のことを思い出すたび、心のどこかでそのような夢想を描くことを禁じ得ないのである」


引っ掻かれたとこ、当分痕が残りそう。さいあく。
慈郎もちょっと気まずいらしく、ここ数日は私じゃなくてお母さんにべったりだ。だから私はひとり河川敷に腰を下ろして、ナヌヤバラにもらったお父さんのノートをめくってみたりする。
誰かに名前を呼ばれて顔を上げる。中洲を挟んでふたつに分かれた水面が、夕陽をチカチカ反射して虹色に弾ける。


[初出 2019年 ブンゲイファイトクラブ2 予選通過作品]

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