文献狩り

目測20メートル先の水場に小型の文献が現れる。
司書は弓に矢をつがえる。ピュ、という音が私の耳をかすめて、次の瞬間、文献の体が大きく跳ねる。司書は茂みから躍り出て二の矢をつがえる。後ろ足を引きながら逃げ去ろうとする文献の長い首を矢が射抜く。
「今です、これを。喉を狙って」
そう言って司書は私に匕首を手渡す。手の中にずしりと鉄の重みを感じながら、私は文献に近づく。

まだ温かい、しかし手の中で急速に熱を失っていく文献を閲覧する。唇をめくって歯茎に記された著者と出版年を確認。
腹を裂くと鮮血とともに豊中市民の声が溢れ出した。農業用水に関する部分と、ちょうど庄内駅周辺の地図になっている太腿の付け根の皮膚だけを切り取って、ジップロックに入れてクーラーボックスに仕舞う。あとは土に帰すのがいいだろう。

「助かりました。少し若いですが、今回はこれでなんとか凌げそうです」
司書に心から礼を言う。文献の行動範囲を予測し、先回りして追い詰める鮮やかな腕前への称賛も込めて。彼女は一瞬表情を崩し、すぐにまた狩人の顔に戻る。
「何をおっしゃってるんですか、この文献は本命を釣るための餌です。めぼしい箇所は複写しましたね? それでは残りはあの中に」
水場から少し離れた広葉樹の林の中に、使い古された大きな箱ワナが口を開けていた。二人がかりで文献の死骸をその中に運び込む。
「かなり厚みのある郷土資料がこの辺りで何度か目撃されています。推定年齢230歳。お探しの昭和初期の北摂の資料も毛皮の下にたっぷり蓄えているかと」
司書は袖で額の汗を拭おうとするが、かわりに文献の鮮血が顔に赤いスジを引く。それを気にも留めない様子で、
「そう、おそらく現物資料も」
と付け加える。
そう聞いて、興奮とともに冷や汗が背中を伝う。かなりの大物。うっかり丸腰で鉢合わせでもしたらこちらもただでは済まない。しかし何より、現物資料は魅力的だ。

木々がまばらな場所を選んで焚き火を起こす。明かりに吸い寄せられるように小さなテキストが飛んでくる。炎に身を投げる寸前に両手でそれを捕まえるが、大抵は情報とも呼べないような会話の断片だ。少しでも役に立ちそうなものはものは、昼間採取した農業用水の資料とともに鍋に放り込みくつくつ煮込む。煮汁を匙ですくって舐めてみる。いいダシは出ているがやはりまだまだ根拠が薄い。
司書は先程から木々の向こうの暗闇をじっと見ている。狩人として鍛え上げられた、刃物のような存在感。文献を狩る技術に特化し、フィールドで私のような者の案内をする。
いっぽう私は、もう20年近く捏ねくり続けた論文が体内で肥え太り、錆び付いて呼吸器や消化器を圧迫し始めている。早いところ結論を出さなくては、長くは持たないと医者は言う。これはまさに命のやりとりなのだ。
「焦ってはいけません」
深い闇の向こうを見つめている司書の口だけが動く。
「野生化した文献は好戦的な上に狡猾です。油断すればこちらがやられる。村ひとつまるごと文献に滅ぼされた例もあります」
司書は表情を変えず、古傷だらけの腕をさすった。

不意に生ぬるい風が吹き、焚火がパチパチと火の粉を吐き出す。空気が震えてキィーーーンという金属質の轟音が空を覆う。あたりを見回すと、私たちは森ではなくだだっ広いコンクリートの地面に立ち、今まさに巨大な鉄の塊が頭上をかすめて離陸していくところだった。焚き火が揺れるとあたりの風景に縦縞の影ができる。木々をスクリーンにして白昼の飛行場の様子が映し出されているのだ。
「これは……視聴覚資料! しまった、早くここから離れて」
言い終わらないうちに司書の体が大きく跳ね、地面に叩きつけられる。私の口から声にならない悲鳴が漏れる。考えるより早く匕首に手を伸ばしかけて、右腕の感覚がないことに気づく。腕の付け根にぬるりと温かさを感じる。全身の熱がそこから抜けていく。目を上げると、乗用車ほどもある巨大な文献が、黒光りする歯を赤く染めながら私の右腕にしゃぶりついていた。みるみるうちに、見開かれた文献の右腕に脚註が浮かび上がる。
そのとき文献の体の下で何かが動き、喉から天に向かって火箸が深々と突き刺さる。山のような巨体がぶるっと震え、ゆっくりと崩れ落ちる。飛行場が消え去り、視界は再び暗闇に沈んで、私の意識はそこで途切れる。

目が覚めると、背の高い本棚に囲まれていた。紙と埃の匂いが鼻をくすぐる。目の前に血まみれの司書の顔が現れ、安堵の表情を浮かべる。
「まだ動かないでくださいね、なんとかここまで運んで、あの文献からあなたの右腕の論を組み立てました。素人の仮組みです。論文医の先生をお呼びしているのでもうすこし眠っていてください」
私は書庫の中央に据えられた大きな書見台に寝かされていて、なるべく首を動かずに目だけを横に向けると、あの巨大な文献の頭部と腕、内臓の一部が同じように書見台に並べられていた。蛍光灯に照らされた歯や爪は鉄製の鍬や鋤といった農具のようだった。やはり100年以上前の現物資料を蓄えていたのだ。あの時、あの鋭い一次資料でもし喉元をやられていたら。背筋に冷たいものが走る。

新しい右腕は獣の匂いがした。まだ肩口からの論理展開を曖昧な接続詞でごまかしている状態で、動かすと簡単にくずれてしまいそうだ。それにしても、満身創痍なのに不思議と身体が軽い。文献が本論に馴染んでいる証拠か、それとも、体内の余分な論が血と一緒に流れ出たからだろうか。期待していた形ではなかったが、これならまだ続けられるかもしれない。
申し訳なさそうに俯いている司書にそう伝えようと口を開くが、出てきたのは謝辞ではなくて、拙い序論の書き出しだった。



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