ロストステップ

物語がいつも正しい順序で綴られているとは限らない。
親より子供が先に亡くなることも、運命の人と結ばれないことも、今日出会ったばかりの人と旧知の友のように打ち解け合うことも、物語の順序に入れ違いが起きているからだ。それを乱丁という。
人の一日が眠りと眠りで区切られた一ページで、人生がそのページを綴じた一冊の本である限り、乱丁は誰にでも起こりうる。たとえば私の場合は、こうだ。

最後のホームルームが終わり、まだ帰りたくない仲の良いもの同士が廊下や下駄箱の周りに集まっている。その中に僕たちもいて、卒業アルバムをめくって写真写りをからかいあっていた。
「お前、あっちで誰かが探してたぞ。たぶん南中の女子」
校庭から昇降口の階段を上ってきた友人が僕を見つけてそう言うので、一同は沸き立った。身に覚えがないわけでもなく、だけど自分から探しにいくのもなんだかで、渋っている僕を悪友たちは下駄箱に追い立てる。浮かれた様子を悟られないようにわざともたつきながら靴を履く。校庭へと降りる階段を一歩踏み出したその瞬間。体が無重力に投げ出される。日差しのなかで視界が揺れて、足首に激痛が走る。
3年間毎日踏みしめた階段を、よりによって最終日になぜ踏み外してしまったのかわからない。不自然に着地した右足首はみるみる腫れて、諸々の感慨も期待も人を待たせていることも、全部痛みで吹き飛んだ。めかし込んだ母親が駆け寄ってくる。そのまま手の空いていた他学年の先生の車に乗せられる。校門を出て角を曲がるとき、ほころび始めた桜の木が手を振っていたことを覚えている。
いつの間にか僕の意識は宙に浮かんで、ことの顛末を空から見届けていた。ページは先に続くけれど、今はどうにも眠くて、舞い込んできた桜の花びらを栞にして瞼を閉じる。

目が覚めると足の痛みは嘘のように消えていた。痛みが引いたというより、足を捻ったこと自体が夢だったみたいだ。右足首に神経を集中すると、芯の方に疼きとも言えないほんのわずかな違和感だけが残っている。
部屋の様子がいつもと違う気がする。こんなに狭かっただろうか。さっきから肘に柔らかいものが触れていて、布団の中で頭をそちらに向けてみると知らない子供がいた。私は瞬時にそれが我が子だと理解した。
昨日のことを思い出そうとすると、校庭の桜も、一緒にはしゃいだ友達も、めかし込んだ母親も記憶のはるか彼方で、代わりに工場長の怒声と、取引先の営業の嫌味なため息が割り込んできた。自分が何か相当なミスをやらかしたことを思い出しそうになり、目を落とすとそこにある無垢な寝顔にしばし目を奪われる。その頃には、自分が高校入学を控えた15歳ではなく、製本工場に努める34歳だということをほぼ完全に思い出していた。居間の方で「わはは」と笑い声がする。妻がテレビをつけたのだ。

居間のソファに座り、妻が入れたコーヒーを口に運ぶ。テーブルの上の手帳に手を伸ばして、テレビの中の日付と手帳の日付を照らし合わせる。日付の下に書かれた五桁の数字に目が止まった。三日前が13510、二日前が13511、昨日が13512…今日の欄には何も書かれていないが、順番だと13513だ。手帳に挟んだペンを手にとる。少し悩んで、何も書きつけずに手帳を閉じる。

工場の駐車場で一緒になった同僚からの憐れみの目が辛い。昨日の記憶は薄ぼんやりとしているが、やはり相当のことをやらかしたようだ。
更衣室のロッカーをあけると、棚に置かれた紙の束が目に飛び込んでくる。2ミリ程度の束が十数束重なって、1冊の本の厚さになっている。その背中には階段状に並んだマークがついていて、その一段だけが不揃いにズレている。これは折り丁が正しい順序で並んでいることを確認するための背標と呼ばれる目印だ。背標が飛んでいるということは、中のページの順番も狂っていることになる。ラインへの折り丁のセッティングを誤ったことなどこれまでなかった。それが昨日に限って起こり、その時なぜか検知器が動作しなかったのだ。
手に取ると、扉ページに貼られた付箋に「背丁・背標・ノンブル確認」と赤マジックで走り書きされている。付箋をめくると見慣れた学校の名前と、卒業アルバムの文字。この近くの中学校だ。頭の中で昨日の記憶がようやく追いついてくる。卒業式で配布されて、その日のうちに当の卒業生達が乱丁を発見した。そこからは話が早い。学校から印刷会社に、印刷会社から工場長に、工場長から私に。昼休憩中の私が襟首を掴まれて激しく怒鳴りつけられるまで、30分とかからなかった。昨日起こった一連の顛末を他人事のように反芻しながら、しかし私の脳裏にはそれとほとんど関係のない薄紅色の光景が広がっていた。今朝も車であの学校の前を通ったのだ。校庭には桜の花がほころんでいた。

更衣室のドアが乱暴に開いて工場長が入ってくる。ロッカーの前で立ちすくむ私を見つけるなり、何か怒鳴りだす。昨日の続きだ。この人は何日でも飽きずに怒鳴り続けるのだ。
しかしその時には私は天井あたりに浮かんでいて、自分と工場長の頭を見下ろしている。
昔から、ふとした拍子に私はこうして剥がれてしまう。いつか剥がれたままどこかへ飛んでいってしまうかもしれない。だから、昨日と今日と明日が連続して綴じられた同じ自分であることを毎朝確かめているのだ。確かめていても乱丁は起こるが、確かめなければ起こったことにすら気づかずに物語を見失ってしまうだろう。

振り返ると校庭に桜が見える。あれは通勤路にある中学ではなく、20年前に私が通っていた中学だ。卒業証書と卒業アルバムを手にしてはしゃいでいる自分が見える。そうだ、あれは確かに昨日のことだった。ページ順が入れ替わっただけのことだ。
背丁、背標、ノンブル確認。中学生の僕は卒業アルバムの最後のページをめくる。左下に小さく「5491」と手書きされている。
桜の木から名前を呼ばれた気がして、アルバムを閉じて階段を駆け降りる。今度は一段一段、しっかり確かめながら。

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