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木枯らし少年

「木枯らし1号!」

そう呼ばれて、もうほとんど腰を浮かせていた小林一郎少年はパイプ椅子の上に尻餅をついた。いや、聞き間違いだろう。小島徹の次は、間違いなく小林一郎のはずだ。そうすると、壇上から校長先生がもう一度、はっきりとした口調で

「こがらし、いちごう!」

と読み上げた。小林少年は今度こそ立ち上がって、それと入れ違いに、黒い筒を手にした小島少年が隣の席に腰を下ろした。
小林一郎少年は、こうして木枯らし1号少年になった。春と呼んでも差し支えない、うららかな三月だった。

ぶかぶかのブレザーに袖を通した同級生たちが、ピカピカのシューズやユニフォームを見せ合っているのを、木枯らし少年は自分の部屋の窓から見下ろしていた。木枯らし少年は木枯らしだから、春は極力おもてに出なかった。猫のミータを撫でようとすると逃げられた。お母さんが入れてくれたホットミルクは手の中ですぐにさめた。季節は夏に向かうのに、少年の手はどんどん冷たくなっていくようだった。

木枯らし少年は、本を読んで過ごした。寒い国の寒い季節の話が好きだった。しんしんと降り積もる雪の下に、まるごと埋まった村の話。湖に張った氷の上で、小狐がスケートをする話。オーロラのマントを翻して冒険に出るペンギンの話。物語の中にいる自分を想像しては、小さく身震いをした。

夏はとにかくひどかった。クーラーをキンキンにかけた部屋で、いちばんあったかい蒲団と毛布にくるまって一日を過ごした。いつもとても眠たくて、本を読もうとすると同じ文章の上を何度も何度も目が滑って、気がついたら本当に眠っていた。

お父さんが、遊びに行こう、って誘ったら、木枯らし少年は、無理、って返事をした。そしたらお父さんはドアの隙間から、だいだい色の船の写真が載った紙切れを滑り込ませた。南極から船が帰って来るんだよ。港まではお父さんの車をキンキンに冷やしておくから。ドアを開けると、お母さんがフワフワの雪だるまみたいなコートを差し出した。木枯らし少年は、ちょっと大きいんじゃない、と思った。

二学期が始まると眠気が嘘みたいにどこかに行って、木枯らし少年は読書にいっそう熱中した。一日三冊、調子が良ければ五冊は読めた。家の近所の図書館の、自習室のひとつは、木枯らし少年のためにいつもキンキンに冷やしてあった。図書館がしまっている火曜日は、プラモデルを組み立てた。南極観測船とか、深海探査艇がちょっとずつ部屋に増えていった。

木枯らし少年は台風が好きだった。予報円が近づくとそわそわして、それるとガックリした。そして、ひどい大雨や土砂崩れのニュースには心を痛めた。雲が早く流れ、風がどうどう吹き荒れ始めると、服を全部脱ぎ捨てて、外を走り回りたい衝動にうずうずした。うずうずすると木枯らし少年の手足は一層冷たくなって、部屋の中に小さな気流の渦ができ、猫のミータがくしゃみした。

いくつかの台風が蝉の声を街から追い出して、そして、秋が来た。
窓の外の同級生たちは、いつの間にか手足が伸びて、ブレザー姿が様になっていた。紺のブレザーにベージュのコートや赤いマフラー。髪の毛が栗色になった子もいた。
木枯らし少年の喉はひゅうひゅう鳴って、いつも声がかすれているようだった。ゆっくりでいいんだよ、と大人は言った。


十一月のある晴れた日。
目が覚めたのは明け方だった。街は静まりかえっている。
春に試着したきりだったブレザーに袖を通してみる。ぴったりだった。夏に買ってもらった白いコートを羽織ってみる。ぴったりだった。スニーカーは少し窮屈になっていて、玄関の扉を開けると背中でミータがナァ、と鳴いた。
はるか遠くの海から、南極観測船の汽笛が少年を迎えに来る。

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