こどもの証

 明石っ子レコードにアクセスできる条件は二つ。
 1、明石市で生まれ育ったこと。
 2、十五歳以下のこどもであること。
 私は1をクリアしていないから、天体観測室に入っていったてらすとニニをいつも階下の展望室で待つことになる。記述と閲覧を終えた後のふたりは、私にどこかよそよそしくなる。私は私で、外の景色に夢中で階段を降りてきたふたりにも気がつかないみたいな、小さなフリをする。小さな私たちが暮らす小さなまち。その向こうには海。そこにかかる、今は使われていない大きな橋を指でなぞると、行き着く先は島。島。島。
「えびす、終わったで」
 てらすに声をかけられて振り向く瞬間、海の向こうにかすかな光が翻るのが気がした。

「てらす、今日は何を書いたの?」
「あんな、それは言われへんていつもゆうてるやんか。せやけど全部や。見たもん聞いたもん全部。えびすが『ちょうちん』と『ひょうたん』間違えて覚えてたこととか……ったいなあ。やめろやホンマのことやねんから」
 てらすはいつも言わなくていいことを言う。いっぽうニニは無口で、喋るのが遅い。
「ええと僕は、二九四九年から三〇〇八年までの、瀬戸内海の、内紛の記録を読んだ。まだ穴ぼこだらけやし、僕も、あんまり人に言うたらあかんねんけど」
「そうなんや、その間に橋が落ちるんやっけ?」
 てらすは書く。ニニは読む。ふたりと私は展望台を出て、海に向かって坂を下る。つるんとした午後の空高く、衛星たちが何条もの軌跡を描く。
「ニニ、さっき展望台で、橋の向こうの向こうで島が光った気がした」
「うん」
「知ってる?」
「えびすは九六五日後にそこに行くことになる。てらすと僕は行けないから、なるべく遠くまで見えるところで見送ろうと思って、橋脚に忍び込む。その時点でてらすは左足をなくしているから階段をうまく登れない。僕はてらすに貸しを作る……痛たっ」
 てらすがニニの頭を力一杯叩いた。
「漏れてる漏れてる。ニニ、お前最近調子よおないんとちゃうか。だいたいそんなんどこにも書いてへんかったやんけ」
 それっきり、ニニは下を向いて黙り込んでしまう。てらすはそっぽを向いて、道々の看板を無意味に読み上げる。餃子のみんみん、チャーハンのてんてん、シウマイのずんずん、ラーメンのぽんぽん、駐車場のタイムズ。たぶん、私が加わる前からふたりが通っていた道。ふたりの間に流れていた時間。私はなんとなく透明になって、てらすよりも少し遅く、ニニよりも少し早く歩く。紺色の空と海が目の前に迫る。

 私は文字通り、明石に流れ着いた。仮死状態だったおかげで海水を飲まずに済んだ。識別番号は削り取られていて、もちろん記憶もない。誰かに廃棄されたのは明らかだった。目覚めなければそのまま海岸棲生物の餌になっていただろうけど、てらすが興味本位で横腹を蹴飛ばしたおかげで蘇生して、養護施設に引き取られた。そこはてらすとニニの家でもあった。「えびす」と名前をくれたのはニニ。「そう書いてあったから」だって。
 この町に住んでいる人はあまり多くなくて、私が会ったことがある大人は養護施設のパパ、ママ、博物館の館長、餃子を焼いてるみんみん、家を持たない夜の一族、小説家のおじさん、他所から来て学校を作ろうとしている人たち、それぐらい。明石っ子レコードにアクセスできるのは、てらすとニニだけ。ふたりがこどもじゃなくなったらどうなるのか、それは誰も知らない。おそらくニニ以外は。
 私たちはずっとこのまま、大人になんてならないんじゃないか。そう思っていたのに、柔らかい産毛に覆われていたてらすのおでこはパリっと固く脂っぽくなって、カイツブリの鳴き声みたいだったニニのささやきは貨物船の汽笛みたいになっていく。私は何か変わってる? 明石っ子レコードにはどんなふうに書いてあるんだろうか。てらすから見た私のことを。ニニはもう読んだのだろうか。てらすと私が、ふたりでいるときのことを。

「えびすは学校、行くん?」
 てらすがぽろっと漏らした言葉に、頭の中を見透かされたみたいでギョッとする。
 明石に新しくできるかもしれない学校。海の向こうの島にまだ残っているかもしれない学校。どちらにしても、私たちには関係ないと思っていた。知識を教わるということ自体、てらすとニニには無意味だから。でも、私は。
 てらすに答えず海の向こうに目をやると、銀色の光が小さく跳ねて水しぶきを立てた。ニニがはしゃいでザブザブと海水をかき分ける。てらすが後を追ってTシャツを臍まで濡らす。空では明石っ子レコードを載せた二基の衛星が、まだ明るい東の空に白い引っかき傷を残して、水平線の向こうへ帰ってゆく。

 てらすは書く。ニニは読む。私は何もできないけれど、ふたり並んだつむじが綺麗にシンメトリーの渦を巻いているのを知っている。



[初出 2020年 六枚道場]

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