具体表現という病
三島由紀夫は、安部公房の小説を読んで
「き〇がい小説だ」
と言いました。
これは何も、安部公房の小説の内容を批判しているわけではありません。
安部公房は主人公の名前を設定していなかったり、Kなどのアルファベットを名前にしていることを「き〇がい小説」と言ったのです。
三島由紀夫の小説を読んだ方はわかるでしょうが、彼の小説には具体的な地名や人名がやたら多いです。
そしていつの間にやら、具体的な表現をすることが純文学的であることと同義にされてしまったのです。
あなたがもし、純文学作家になりたいなら、とにかく具体的な表現を心がけましょう。主人公の名前はそうだな、田中だと抽象的すぎるから、長曽我部とかにしましょう!とにかく具体的に具体的に!
民族地名辞典の購入は必須でしょう。パラパラめくって適当な人名を登場人物に与えましょう。
地名はとにかくよく調べましょう。実際にその地に行きましょう。写真をいっぱいとって、その写真の通りに描写しましょう。
お、出来上がりましたか。文字数が足らないじゃないですか。最低3万字書かなきゃ純文学ではありませんよ。
おや、できましたか。早いですね。LGBT要素がないじゃないか。これじゃあ純文学とは言えませんね。
やっとできましたか。うん。うんうん。こりゃいい!社会派かつLGBTが登場人物に出てきて、かつ震災経験も入っていて、かつグロテスクかつ性描写が多くてかつ冷酷な主人公がいる!
これが純文学の書き方です。
終わってますね。
これだから文学は駄目なんでしょうね。
日本の文壇とか「純文学」作家には文学は任せておけませんよ。
具体的な表現に逃げているんですね。
新文学運動をしなくちゃいけないな。
純文学じゃなくて新文学
具体的な表現を一切排した小説こそ普遍性を持つ。
具体的な表現反対!
僕は高らかに叫びます。
ではまた
プチ文学賞に使わせたいただきます。ご賛同ありがとうございます! 一緒に文学界を盛り上げましょう!