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 家湯が無くて、小学校3年生の途中までは銭湯に行っていました。公営の住宅に引越したのをキッカケに家にお風呂が付きました。と言っても、標準では付いてなくて、自分たちで付けられるスペースが、台所の隣にありました。いつの時代の話だよ!、と思われるかもしれませんが、昭和40年代は、日本もまだまだ貧乏な時代でした。

 この空きスペースに、買ってきた湯船を取り付けて、洗い場はコンクリートを買ってきてDIYです。湯船の左下には風呂の焚口があって、灯油を燃やす火炎放射器のようなバーナーで風呂を沸かしていました。毎回ではありませんでしたが、母が忙しい時には小3の私が風呂を沸かしていました。バーナーはゴ~という轟音がするので、マッチで火をつける時にとても緊張したのを覚えています。今なら、小3の子供にこんな危険なことはさせないと思いますが、当時は何でもさせられました。

 中一の時に家を新築したので、新しい家での新しい風呂になりましたが、父親の拘りで五右衛門風呂になりました。その当時でも、新築の家で五右衛門風呂を設置するのは、かなり珍しかったと思います。新居に引っ越してからは、私が専属の風呂焚き係になりました。大学に入学して家を離れるまでの6年間は、ほぼ100%、私が風呂を沸かしていました。

 五右衛門風呂の焚口は、室外にあります。燃料は製材所で買ってきた廃材です。この廃材を父がマキタの電気ノコギリで適当な大きさに切ったものを、私が斧で薪割しました。中学生が1mちょっとある長い斧で薪割です。今の子に出来ますかね~。最初は、火をつけるのに苦労しましたが、高校を卒業するころには手馴れていました。しかし、受験勉強の最中でも、風呂焚きは免除されませんでした。

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 晴れて大学に合格して、家を離れることになりました。この時は大学に合格した嬉しさよりも、風呂焚きから解放される嬉しさの方が勝っていました。大学1年の時は下宿のお風呂でしたが、大学2年生から就職するまでは銭湯でした。幸い、住んでいた場所の近くに銭湯があったので、それほど苦労はしませんでしたが、またまた銭湯に逆戻りでした。

 就職して初めて、ユニットバス付のマンションに引っ越しました。たまたま新築の賃貸マンションを借りることができて、家に風呂がある喜びを嚙み締めました。あまりに嬉しくて最初の月は、毎日のように湯船にお湯を張って入浴していたのですが、一月後の水道料金とガス料金の明細を見て愕然となりました。それからは、適当な間隔を空けて風呂に入ることにしました。

 日本の経済成長とともに、私の風呂は銭湯⇒家風呂⇒五右衛門風呂⇒下宿の風呂⇒銭湯⇒ユニットバスと変わっていきました。

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