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二十過ぎれば只の人

十で神童とおでしんどう十五で才子 じゅうごでさいし二十過ぎれば只の人はたちすぎればただのひとという成句があります。この言葉そのものは、10歳で神童と呼ばれた子供が、15歳では才能がある人(才子)になり、20歳過ぎると平凡な人になるということですが、”幼少時代は並外れてすぐれているように見えても、多くは成長するにつれて平凡な人になってしまう”ことの例えです。

この言葉には、”たとえ神童と呼ばれるほど評価が高くても、決して努力を怠るな”という戒めの言葉だろうし、”抜きんでた才能を潰すな”という意味もあるのだろう。ひょっとすると、”才能は隠した方がいい”というアドバイスかもしれません。

たしかに、早熟な子供がある分野で素晴らしい才能を発揮したのに、年齢と共にその分野に興味を失くしてしまうといったこともあります。そうなると、平凡な”只の人”になってしまいます。

誰もが知っているモーツァルトは、3歳のときからクラヴィーア(ピアノのような鍵盤楽器)を弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行なったと言われています。しかし、早熟の神童・モーツァルトは、死ぬまで天才のままでした。モーツァルトは、頭の中に音符が降ってくるそうで、彼はそれをただ五線譜に書き写しただけと言われています。まさに天才中の天才でした。

数学の天才・ガウスも天才エピソードが数多く残っています。ガウスも早熟の神童で、5歳の頃から家業の帳簿を任されていたそうです。ガウスもモーツァルトと同様に、死ぬまで天才のままでした。しかし、世界史に名を残すような天才は数少ないことから、若き神童も普通の青少年に変貌していきます。

我が子は、小さい頃から”字”に興味があって、2歳の頃にはアルファベットを全て記憶していました。また、3歳くらいまでには平仮名も覚え、簡単な絵本なら一人で読めるようになっていました。しかし、簡単な絵本は字数が少なく、丸暗記も可能なので、疑り深い私はテストすることにしました。一緒にお風呂に入った時に、湯船の追い焚きスイッチに平仮名で”あつく”と書いてあったので、これでテストしようと思い付きました。”あ・つ・く”の順番だと、やはり記憶している可能性があるので、逆順に”つ・く・あ”で読ませましたが、間違わずに読めました。

親バカかもしれませんが「うちの子は天才?」と思ってしまいました。自慢するわけではありませんが、同じ幼稚園の同級生で、入園前に絵本が読める子は他には一人もいませんでした。しかし、そんな我が子も計算は苦手みたいで、簡単な計算も小2くらいまでは両手の指を使って計算していました。どうやら、うちの子は”字に特化”した天才(?)のようでした。

しかし、天才の片鱗は結局開花しませんでした。20歳どころか、残念ながら10歳くらいで只の人になってしまいました。天才の数が少ない理由がよくわかりました。

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