見出し画像

路線バスの思い出

 父はバスの運転手でした。その前はタクシーの運転手で、さらに前はトラックの運転手でした。麻雀なら三色揃い踏みです。父は運転手の仕事しか、したことがありません。一貫した運転手人生でした。

 今朝、テレビをザッピングしていました。偶然、ローカルな路線バスの番組が放映されていて、昔の記憶が蘇りました。小学1年生の夏休みだったと思います。そのころ母は専業主婦だったので、いつもは家にいるのですが、急な用事で次の日に1日家を空けることになりました。小さな私を一人で留守番させるわけにもいかず、私は運転手である父のバスに乗って、強制的に路線バスの旅をさせられることになりました。母は父と私の弁当を作って、私達を送り出しました。

 父は仕事で運転しているので、あまり話しかけることはできません。お客さんが居れば、尚更です。当時のバスは、床が木で出来ていて、防腐剤を兼ねて黒い油が塗り込まれていました。バスにはその油の臭いが充満していました。私は、バスの床の臭いが苦手でしたが、おとなしく後ろの席にチョコンと座っていました。

 強制的なバス旅(?)ですから、旅を楽しむ余裕もなく、窓からの風景などは全く覚えていません。しかし、終点の目的地で折り返しまでの時間に、父がバス停近くの店で買ってくれたチョコボールのことはよく覚えています。まだまだ貧乏な時代、こんなブランド物のお菓子は滅多に買ってもらえませんでした。

 あまり知られていませんが、バス運転手は勤務中に現金を持つことを禁止されていました。これは、バス料金を盗んだりすることを防止するためです。しかし、運転手の多くは休憩中のタバコを買う小銭を隠し持っていました。しかし、時々抜き打ちの監査があります。その時に現金を持っていると、大問題(停職や解雇)になります。多くの場合、運転手は咄嗟に小銭をバスの窓から外に投げ捨てます。

 あの時のチョコボールも、タバコを買うために忍ばせていたお金だったろうと思います。折り返しの出発までの間に、バスの中で二人でお弁当を食べました。お弁当のあとは休憩ですが、父はバスのカーラジオを付けて、夏の甲子園大会の野球中継を聞いていました。バスは木陰に駐車していたので、セミだけが鳴いている静かな田舎で、野球中継が遠慮がちに響いていました。

 帰りのことは、よく覚えていません。それから、当時は女性の車掌さんが同乗していたはずですが、その記憶もありません。強制・路線バスの旅の思い出は、「チョコボール」と「甲子園」だけでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?