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科学エッセイ分冊 考古学編

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考古学関連の記事をまとめました。
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#エッセイ

空想考古学・邪馬台国はココだ!#13 魏志倭人伝と人類学

邪馬台国論争で、常に問題になるのは、魏志倭人伝に書かれた”文字情報”です。私はこの文字情報が正しいという前提の下で、この空想考古学の論理を組み立てています。しかし、多くの研究は、自分の都合の良いように文字情報の意味を曲解したり、改竄しています。邪馬台国畿内説では、”方向”を間違いだと主張していますし、邪馬台国九州説では”距離”を胡麻化しています。 手前味噌になりますが、空想考古学の『邪馬台国・奄美大島説』では魏志倭人伝の情報を一切捻じ曲げていません。例えば、魏志倭人伝に書か

空想考古学・邪馬台国はココだ!#12 長寿の国・邪馬台国

 魏志倭人伝には、『インドネシア・ジャワ島説』でも書いた”南方”をイメージさせる記述が多く出ています。例えば次の部分です。『倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣』   和訳は次のようになります。「倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である」。現在、”標準的な邪馬台国論争”では、邪馬台国の位置は九州または畿内です。しかし、九州がいくら暖かいと言っても、”冬でも裸足”はかなり厳しいと思います。温暖化が叫ばれている昨今でも、冬場の裸足は無理ですから、今よりも寒かったと考

空想考古学・邪馬台国はココだ!#11 ”弥(彌)”という名前

 前回に続いて、名前からの考察です。半島日本語では”弥(彌)”は、水の意味を表わすMiという音の漢字です。この名前が邪馬台帝国の最大の戸数を誇る投馬国と、本国である邪馬台国の役人名に頻繁に出てきます。これは偶然ではない気がします。  南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸 「南、投馬国に至る。水行二十日なり。官は彌彌と曰ひ、副は彌彌那利と曰ふ。五万余戸ばかり。」  上が漢文で、下はその読み下し文です。投馬国は戸数およそ五万余戸の邪馬台国の中でも、最大規模

空想考古学・邪馬台国はココだ!#10 卑弥呼の正体に迫る (訂正あり)

 久しぶりに邪馬台国の記事を書いてみようと思います。邪馬台国の名前を聞いたことがない人は少ないと思いますが、一応説明しておきます。邪馬台国は、2世紀~3世紀に”日本のどこか”に存在したとされる国の名称です。邪馬台国は女王・卑弥呼が治めていた国家連合で、日本のどこかにその都があったことは、”魏志倭人伝”の短い記述から間接的にわかっています。空想考古学では、『邪馬台国・奄美大島説』を採用していますが、あくまでファンタジーな”空想考古学”ですので、お許しください。  ヒミコ様の名

空想考古学・邪馬台国はココだ!#9 邪馬台国の末裔

 今回は、邪馬台国そのものではなく、邪馬台国の末裔(かもしれない)勢力のお話です。こんな自由な発想ができるところが、空想考古学の良さだと思います。  継体天皇は、日本の第26代天皇ですが、その即位の仕方がそれまでの天皇と大きく違っています。継体天皇の出自がちょっと謎なのですが、『記紀』によれば、応神天皇(第15代天皇)の来孫(5代目の子孫)であり、日本書紀では越前国、古事記では近江国を治めていたと書かれています。この辺りの記述も曖昧です。  そもそも、2代前の祖父ならわか

空想考古学・邪馬台国はココだ!#8 倭国大乱の実態

 倭国大乱は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱のことです。この争乱のことは、『後漢書』『三国志』『梁書』などの中国の複数の史書(正史)に記述されています。その内容は、およそこんな感じです。  倭国はもともと男子を王としていたが、70〜80年を経て、倭国内で国王の座を争う大乱が発生した。その争乱は暦年(約10年?)続いたのち、邪馬台国が勝利し、邪馬台国の一女子を王とすることで国中がまとまった。その女王の名を卑弥呼という。  邪馬台国がどこにあるにしろ、九

空想考古学・邪馬台国はココだ!(番外編) 邪馬台国と前方後円墳

 今回は大胆に、前方後円墳の”謎の形状”に関するオリジナル新説を発表しちゃいます。前方後円墳の”鍵穴型”形状の理由には、諸説ありますが、邪馬台国とも関連する新説を思い付いたので紹介します。   前方後円墳は、円形の墳丘に方形の墳丘を付設した古墳を指します。上空から見た形状は、円形と方形を組み合わせた鍵穴形をしています。英語では前方後円墳のことも、”Keyhole-shaped mounded tomb”といいます。日本では、この形状が車(牛車)に見えることから車塚といわれた

空想考古学・邪馬台国はココだ!(番外編) 邪馬台国前史と上野原遺跡

 上野原遺跡は、鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森にある縄文時代早期から近世にかけての複合遺跡です。上野原遺跡では、古いものでは9,500年前の竪穴住居跡が52軒も発掘されています。現在、遺跡の周辺は、鹿児島県上野原縄文の森と呼ばれる県営公園として整備されています。私は、この遺跡が邪馬台国成立に関係があると睨んでいます。  今回は邪馬台国成立までの歴史を空想したいと思います。今から約1万年前、南方からやって来た海洋民族(海の民)は、航海をしながら沖縄から南西諸島にその勢力範囲

空想考古学・邪馬台国はココだ!(番外編) 邪馬台国と淡路島

 今回は、魏志倭人伝から少し離れて、邪馬台国と古事記の関係について空想したいと思います。古事記はご存知のように、魏志倭人伝よりずっと後の歴史書ですので、直接の関係はありません。しかし大和王権が多少なりとも邪馬台国の影響を受けているなら、その痕跡が古事記の中に残っている可能性(?)があります。  古事記の最初の部分で有名なのが「国生み」の場面です。イザナギとイザナミの尊の二柱が協力して、”日本列島”を作ります。最初に作成に成功した島は「淡路島」です。日本で一番大きな島は本州で

空想考古学・邪馬台国はココだ!#7 南方系?

 邪馬台国の場所の同定では、距離や方位ばかりが議論されますが、邪馬台国(女王国)の風俗や習慣等も見落としてはならない重要なポイントです。  まずは、入れ墨の風習です。『男子無大小 皆黥面文身 ( 男子は大小の区別なく、みな顔や体に入墨をする)』の記述のように、魏志倭人伝には入れ墨のことが何ヶ所にも書かれています。これは当時の歴史家が中国とは異なる風習に注目していたためです。奄美大島では、明治政府に禁止される明治の初期まで、入れ墨の風習が残っていました。ただし、入れ墨をするの

空想考古学・邪馬台国はココだ!#6 方位と距離

 邪馬台国の位置を論じる場合に問題になるのが、方位と距離です。九州説では方位は問題ありませんが、距離が合わないために「距離を恣意的に胡麻化して」います。また畿内説では、距離は辻褄が合いますが、方位が合わないので「方位を恣意的に胡麻化して」います。どちらの説も、方位と距離に問題があり、魏志倭人伝の記述と合致させるのは不可能です。  しかし、私が考える邪馬台国・奄美大島説では、距離も方位もバッチリ合致します。前回の記事で、古代中国から見て海外にある邪馬台国への出発地は「釜山付近

空想考古学・邪馬台国はココだ!#5 出発地と狗邪韓國

 魏志倭人伝には、目的地までの距離が書かれている箇所があります。しかし、目的地ははっきりしているものの、「どこから出発したのか?」が明確に書かれていないので、解釈する人によって混乱を招いています。連続した経由地までの場合は比較的分かりやすいのですが、特に邪馬台国までの全旅程である(一)万二千里や水行十日陸行一月は、どこから邪馬台国までの距離かがはっきりわかりません。この出発地点については、これまであまり議論が無かったように思います。魏志は中国の正史ですから、出発地は当時の中国

空想考古学・邪馬台国はココだ!(番外編) 倭人とアイヌ

 魏志倭人伝の倭国には、南方を思わせる記述が多く出てきます。例えば、『倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣』(倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな、裸足である)です。縄文時代の途中から、平均気温が上昇しましたが、それにしてもビニールハウスの無い時代に、北部九州や畿内では年中生野菜は食べられなかったはずです。  また倭国の(南方系の)風習で、刺青の記述も数ヶ所出てきます。『男子無大小、皆黥面文身』(男子は身分の区別なく、みな顔や体に入墨をする)がそれです。倭人の男性は、顔や体

空想考古学・邪馬台国はココだ!#4 魏志倭人伝のファンタジーな国々

 今回はちょっと長くなりました。空想考古学では、邪馬台国を奄美大島に想定しています。魏志倭人伝の女王国(邪馬台国)の周りには、まだ解釈が定まっていない不思議な国がいくつか記述されています。しかし、奄美大島を邪馬台国と考えると、色々と辻褄が合うのです。魏志倭人伝の読み下し文になりますが、以下が邪馬台国周辺の謎の国々の箇所です。 『女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國、黒齒國あり、またその東南に