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空想考古学・邪馬台国はココだ!#9 邪馬台国の末裔

 今回は、邪馬台国そのものではなく、邪馬台国の末裔(かもしれない)勢力のお話です。こんな自由な発想ができるところが、空想考古学の良さだと思います。

 継体けいたい天皇は、日本の第26代天皇ですが、その即位の仕方がそれまでの天皇と大きく違っています。継体天皇の出自がちょっと謎なのですが、『記紀』によれば、応神天皇(第15代天皇)の来孫らいそん(5代目の子孫)であり、日本書紀では越前国、古事記では近江国を治めていたと書かれています。この辺りの記述も曖昧です。

 そもそも、2代前の祖父ならわかりますが、5代前のご先祖はほぼ他人です。しかし、第25代・武烈天皇後嗣あとつぎを残さずに崩御ほうぎょしたため、遠い親戚の継体天皇が担ぎ出されました。このとき継体天皇は、当時の有力者である大伴金村おおとものかなむら物部麁鹿火もののべのあらかいなどに推薦されたことになっています。正確な家系図は知りませんが、先代の天皇とは4親等以上離れていて、かつ傍系で即位した最初の天皇とされています。この特異な出自と、即位に至るまでの異例の経緯が今でも議論の対象になっています。

 では、一見ヤマト王権とは無関係に思える地方豪族が、天皇に即位できたのでしょうか?。実際の血縁関係は一先ず横においても、大きな謎が残ります。しかし、継体天皇が地方の有力豪族だったことは間違いないでしょう。ここからが、空想考古学の出番です。

 現在の西南諸島をルーツとする海洋帝国は、その広範囲な移動能力で、九州南部を拠点として、九州の西部や東部と勢力圏を広げていきます。邪馬台国は奄美大島にありますが、その敵対国である狗奴国(今の熊本周辺)も元を辿れば九州西部に移動した邪馬台国がルーツです。さらに、九州東部に移動したグループは、瀬戸内海を経由して、岡山・淡路島・近畿周辺に版図を拡大します。また、日本海側を経由したグループは、島根・福井・新潟と別の道を歩むことになりました。

 現在でも大きな港があることが貿易には向いていますが、大昔でも事情は同じで、国造りの基本は港でした。その証拠に、古代の大きなクニは、良港の近くに作られています。これまでの日本史では、農業(稲作)の広がりが統一国家の礎のように語られていますが、”港を介した貿易”の視点が抜けているように思います。

 継体天皇は、当時の新潟周辺(越の国)を勢力圏とした邪馬台国の末裔だと考えると、ヤマト王権と無関係ではありません。たぶん、瀬戸内経由の邪馬台国の系統が消滅したので、次善の策として、同じルーツを持つ継体天皇に白羽の矢が当たった可能性が考えられます。

 継体天皇の時代に九州北部で、磐井いわいの乱と呼ばれる大戦争が起こります。これは、西暦527年(継体天皇21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を、筑紫君・磐井が邪魔したために起こったことになっています。この乱は、翌528年に物部麁鹿火によって鎮圧されました。

 しかし、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっているし、『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていません。どちらの文献にも、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり脚色されていると、反乱の史実を疑問視する研究者もいます。

 この磐井の乱も、”制海権の争い”だと考えれば、簡単に理解できます。この乱は、朝鮮半島への航海路を重視する継体天皇と磐井の争いです。元を辿れば、磐井は狗奴国がルーツ、もっと遡れば邪馬台国がルーツになります。このことを考慮すると、磐井の乱は”邪馬台国末裔間の主導権争い”の構図が見えてきます。

 この説は、証拠の無い勝手な空想ですが、歴史にこんな自由な発想があっても良いのではないでしょうか。なおタイトル図は、磐井の墓とされる八女・岩戸山古墳の別区べっくにある、石人せきじん石馬せきばの画像です。

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