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空想考古学・邪馬台国はココだ!(番外編) 邪馬台国前史と上野原遺跡

 上野原うえのはら遺跡は、鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森にある縄文時代早期から近世にかけての複合遺跡です。上野原遺跡では、古いものでは9,500年前の竪穴住居跡が52軒も発掘されています。現在、遺跡の周辺は、鹿児島県上野原縄文の森と呼ばれる県営公園として整備されています。私は、この遺跡が邪馬台国成立に関係があると睨んでいます。

 今回は邪馬台国成立までの歴史を空想したいと思います。今から約1万年前、南方からやって来た海洋民族(海の民)は、航海をしながら沖縄から南西諸島にその勢力範囲を拡げます。大きな島では定住生活するものも現れ、一部は九州に到達し、恵まれた自然環境の中、少しづつ大きな集落も形成されました。その代表的なものが、薩摩半島と大隅半島の中間に位置する上野原遺跡です。ここでは、9500年前から定住生活を営んだ形跡が、竪穴住居などからわかります。

 このころ、奄美大島の邪馬台国はまだ生まれていなかったかもしれませんが、島の大きさからすると、ある程度の規模の集落は存在したハズです。また、島伝いの航海で、九州南部とも交易があったはずです。少しづつ、島々に移り住んだ人々の生活も安定しかけた頃、大災害が九州南部を襲います。それが、鬼界カルデラの大噴火です。鬼界カルデラは、鹿児島県南方およそ50kmの硫黄島と竹島を含む直径が約20kmの大きなカルデラで、大半が海底にあります。

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 約7,300年前(約6,300年前とする説もある)に、この鬼界カルデラで大噴火が発生しました。この時の最後の大規模火砕流(幸屋火砕流)は、大隅半島や薩摩半島にまで上陸しました。その時のアカホヤと呼ばれる火山灰は、なんと東北地方まで達していました。

 この幸屋火砕流は、当時住んでいた(上野原遺跡などの)早期縄文時代の縄文人の生活に大打撃を与えたと考えられています。鬼界カルデラに近い、種子島や屋久島の早期縄文集落には大打撃だったでしょう。また、鹿児島南部の早期縄文集落も被害が大きく、その後1,000年近くは無人の地となったようです。鹿児島南部では、この時代に縄文文化の断絶があります。その後に住み着いた前期縄文時代の縄文人は、早期縄文人とはルーツが異なり、土器の様式もすっかり変わっています。

 幸い奄美大島は鬼界カルデラから離れていたことと、風向きのお陰で大きな被害は免れました。大噴火後の1000年間で、奄美大島の原始・邪馬台国はこの時期に力をつけていった可能性があります。一方で、上野原などにいた鹿児島南部の早期縄文人たちは、生活の場を求めて、一部は熊本方面へ、また一部は宮崎方面に逃れて行ったと考えられます。熊本方面へ移住した早期縄文人は、邪馬台国のライバルである狗奴国の祖先になったと考えられます。また、宮崎方面へ逃れた早期縄文人は、邪馬台国の友好国である投馬国などの祖先になったと考えられます。

 元々は、同じ祖先をもつ邪馬台国と狗奴国ですが、九州の東岸と西岸に分かれたことで、制海権を取り合うライバル関係となったと考えられます。ひょっとすると、九州東岸には(正統な)女系王族が逃れ、西岸には男系王族が逃れたのかもしれません。この事が、後の女王の邪馬台国男王の狗奴国を決定づけたのかもしれません。また、これが後の倭国大乱の火種になった可能性も考えられます。

 今回も悪乗りして空想が暴走しました。信じるか信じないかは、あなた次第です。

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