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映画「荒野に希望の灯をともす」(監督 谷津賢二)に関連して、『私は「セロ弾きのゴーシュ」 中村哲が本当に伝えたかったこと』(中村哲)を読んで、少し気づいたこと、考えたこと

 まず、この著作は、中村哲氏が2019年12月4日に命を落としてから約2年後に出版されたものであるが、内容は、1996年から2009年に出演したNHK深夜便の6つの番組で本人が語った肉声を書き起こしたものに、奇しくも命を落とした2019年12月4日発行のペシャワール会会報に掲載された、本人の「今後の決意文」が加えられたものである。この著作の中に、この点だけはどうしても言及しておきたい発見があった。

 用水路建設にかかりきりになっている頃、10歳の息子さんを癌で亡くしているということは、NHKの番組でも、このドキュメンタリー映画の中でも紹介されていた。多くの人々の命がかかっている用水路の建設の手を休めることはできないという使命感と、余命がわずかな息子への愛おしさの狭間で、心の葛藤と苦しみは如何ばかりだったろう。しかし、その建設事業がいかに無私、利他の行為であったといえども、10歳に満たない幼い息子へ父親としての愛情を十分与えることに時間を使うことは、優先されて然るべきであったろう。息子さんも、少しでも長く父親と一緒に過ごしたかっただろう。NHKの番組を見た際も、映画を見た際にも、そういう思い、すなわち、家庭より「仕事」を優先したひとりの日本人の姿が、中村哲さんの姿に重なって見えてきてしまっていた。

 そうした中、このこと、すなわち息子の死について本人が語っている箇所をこの本の中に見つけた。

 中村「・・・良くて一年半、悪かったら半年から一年というのは予測がついていて。だからと言って投げやりになることもない。その一年前後がこの子にとって非常に貴重な時間だなというのが実感としてわかりました。そのために、ちょっと他の仕事をサボってでも、その子を喜ばせるというよりではですね、有意義に生きたということを実感させるように、あちこち連れて参りましたですね。(太字修飾は筆者)
 自分でも、ある程度は予測していたのかもしれませんね、子どもらしからざることを言うわけですよ。「人間は、一遍は死ぬんだから、クヨクヨすることはないのさ」とか言うから、親の方がびっくりして。わたしはひた隠しに、特に家内のほうがショックが大きかったですから、何ごともなかったかのように日常を続けること、そして最大限の、治療と思えることは何でもすると。そして、本人の願いは、あと一年しか生きないということであれば、甘やかすようでも、なるべくかなえてやるというふうに心がけました。」

中村哲という人間の大きさを過小評価していた自分に気づき慙愧した。

 この本では、中村哲の偉大な足跡と、その偉業を可能とした中村哲という人間の人となり、社会観、人生哲学を、本人の飾らぬ率直な語りから知ることができる。ぜひ、一人でも多くの人に読んでもらいたいと思う。

 とりわけ惹かれるのは、この本のタイトルにも入っているように、彼の生き方は、宮沢賢治の生き方とその作品から多大な影響を受けているということ。

 なぜ、このような仕事を20年以上続けて来れたのかとの質問に、
 「義を見てせざるは勇なきなり」で、引き下がれなくなったからと言って、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を引き合いに出して説明している。宮沢賢治の数々の作品の中でも、この寓話は、さまざまな解釈ができそうで、込められた意図がわかりづらい作品のように思うのだが。

 セロが下手くそと言われて、一所懸命練習に取り組んでいる最中に、次々と邪魔が入るが、仕方なく(決して善意や親切心から快くというわけでなく)その相手の求めに応じてあげる。そうしているうちになぜか本番で上手に弾けるようになっていて、褒められる。おまけに、本人はそのこと(いつの間にか上手くなっていること)に気がついていなかった。

 ”自分に降りかかってくる目の前の問題、課題に、目をそらさずつぶらず愚直に取り組む” ということだろうか。

 また、この本のあとがきとして掲載されている、「イーハトーブ賞受賞に寄せて」(2004年)の文章では、

 「アメニモマケズ」から「ヒデリノトキハ・・・」を引用して、授賞式欠席の非礼をお詫びしたあと、「どんぐりと山猫」から、

 「この中でバカで、まるでなってなくて、頭のつぶれたようなやつが一番偉いんだ」を引用して、受賞を素直に喜んでいる。

 私心がなく、子どものような心を持ち続けて、日々を、”一所懸命”、”楽しく”生きた人だった。

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 全く余談になるが、たまたまこの時期に「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)を読んでいて、思わぬ発見をし、自分の大いなる無知にも気付かされた。以下、その内容を手短にご紹介したい;

 パキスタンは、1947年に英領インドが植民地支配から独立する際に、イスラム国家として英領インドの北西部から分離独立した非常に新しい国家である。一方、アフガニスタンは、18世紀の前半には現在のアフガニスタンの元になる帝国が建設されていて、その当時は、ペシャワールはアフガニスタンの冬の首都だったという(19世紀には英領インドから侵略を狙うイギリスと3度(第一次~第三次アングロ・アフガン戦争)も粘り強く戦っている)。このことから、中村さんが、何度も言及していた「パキスタンのペシャワールも山脈を跨いだアフガニスタンも同じ民族が暮らしているんですよ」という言葉の意味がやっとはっきり理解できたように思えた。

 また、こちらが、前述の「君たちは・・・」から教えられた歴史的事実なのだが、ペシャワール地方は、かつてガンダーラと呼ばれた地域(紀元前6世紀から紀元11世紀まで実に長い間ガンダーラ王国として栄えた)で、日本では「ガンダーラ美術」(紀元5世紀ごろまで)として知られている、歴史的に有名な地域である。

 なお、「ガンダーラ美術」は、ギリシャ彫刻の手法で作られた仏教彫刻として知られていると思うが、日本以外では、「ギリシャ仏教美術」と呼ばれるのだそうだ。

 なぜこの地にギリシャの美術が栄えたのかは、長く複雑な歴史的積み重ねを理解する必要がある。

***以上***


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