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自己開示する用の話がない


初めに

「他者と親密な関係を築けない」という悩みが長年わたしを支配している。そしてそれは心に隙間ができた瞬間、濁流のように流れ込んできて、わたしの心をズタズタにする。自分にはなぜ友人が少ないのだろう。絶対に原因があるはずだ。内省の結果、おおよそ以下の3つに原因が絞られた。

❶社交性❷ユーモア❸適切な自己開示

ひとつひとつ話をする。

❶社交性

これは皆さんもよくお分かりであると思う。単純に人との接触回数が少ない。分子どうしが衝突頻度に応じて化学反応しやすくなるのと同じように人間どうしも接触頻度が少ないと友人関係にはなりにくい。
 この人との「接触」というのは何も酒席のような場にたくさん顔を出せ、という話ではない。挨拶をする。世間話をする。一緒にメシを食う。一緒にバカ話をする。一緒にどこか遊びに出かける。こういう風に段階を踏んで人どうしは仲良くなっていくのだが、最初の「挨拶をする」だとか「世間話をする」だとかの段階で、できるだけたくさんの人に網を張っておくということである。
 薄い関係をたくさんつくる、とも言い換えられる。こうしてつくった関係は、その一本一本は薄いモノかもしれないが、そのうちの何割かが太い友人関係へと変化する。そうすると、気づいたら友達がたくさんいた、ということになるのだ。これが友達をたくさんつくるために必要なことのひとつめ。

❷ユーモア

前項「❶社交性」において、友人関係にいたるまでにはいくつか段階があるという話をした。その途中で「世間話をする」だとか「バカ話をする」だとかいう段階がある。この時点で相手に「こいつおもんないヤツやなあ……」と思われないために必要なのが、ユーモアのセンスである。
 ユーモアのセンスと言ってもお笑い芸人のような巧みなトークスキルや一発芸を持っていなければならない、というわけではない。単に日常で共通する出来事を話題にしたライトな話ができたり、共通の趣味の話をしたときに少し話を広げて話の通じるヤツだな!という空気感を醸成できれば、それで十分だ。
 ただし、この「ユーモア」を発揮するうえで、少し気をつけたいことがある。あまり関係値が深まっていないのに、人をむやみやたらにいじったりしないことだ。いじるという行為は、基本的に相手を下げる行為であり、関係値があまり深まっていないときにこれをやると、「バカにされた!」と感じたり、不愉快な思いをする人は少なくないので、基本的にはいじり芸みたいな危ない橋は渡らないのが安牌。そんなことをしなくても十分に仲の良い友達は作れる(はずだ)。これがふたつめ。

❸適切な自己開示

最後が「適切な自己開示」だ。これがいちばん難しい。わたしの友人が少ない理由でいちばん深刻なのはこれなのかな?と思っている。今回の主題。人は仲良くなる過程で自分のことを喋っていく。どんな環境で生まれ育ったか?どんな経験をしてきたか?自分は何者なのか?何が得意で何が苦手なのか?等々。この自己開示のフェーズを抜かすと、「こいつ何者かわかんねえ……」となり、何者かわからんやつとはこの先お友達にもなりたくない、と思うのが人の性である。
 よく就活で「明確な理由があって落とされるやつは良いが、理由なくして落とされるやつはマズい」という話を聞いたが、それと同じ話だと思う。「理由あって落とされるやつ」というのは、「そいつが何者であるか(どんなキャラクターであるか)」が面接官に見えている状態ということで、落とされるのは単なるミスマッチの可能性が高い。
 一方、「理由なくして落とされるやつ」というのは、「そいつが何者であるか(どんなキャラクターであるか)」が面接官に見えていない。要は、「なんかわからん得体の知れないやつ」という認識を持たれている可能性が高い。こういうやつは何社受けても同じ理由(「なんかキャラが見えてこない……」)で落とされ続ける。
 友人関係においても同じことが発生する。世間話やバカ話の過程である程度の自己開示が必要であるが、この自己開示には”それ用に適したエピソード”を選択しないとマズい。たとえば、まだ会って日の浅い、世間話をする程度の間柄の他人に、自分の内面に深く関わる開示や悲しい過去のトラウマ、家庭の悩みなどを話そうものなら一発でドン引きされること請け合いだろう。そう、自己開示には「自己開示用のエピソードの引き出し」が必要なのだ。
 詰まるところ、わたしにはこれがなかった。物心ついたころから大学生になるまで、酒席で軽い世間話の一環として話せるような軽いエピソード(「たのしいおはなし」)がなかった。どれも悲観的で陰鬱な過去の心の傷であった。「そんなモノを話しても場の空気を壊すだけだ」というのはわたしもわかっていたから、敢えて黙っていた。話を訊かれるのも気まずいので、酒席では隅っこで独り酒を煽る日々だった。そんなことをしているうちに、わたしに対してある噂が立つようになった。「あの人なんか取っつきにくいね」「なんか暗いね」「なに考えてるかわからん」。

締め

ってなわけで、わたしなりの「親しい友人が少ない理由」を述べてみた。人間関係は、だいたいここに挙げた3点を抑えておけばなんとかなる(と思っている)。特に最後の「❸適切な自己開示」がむずかしく、現在進行形で苦心している。自己開示に適したエピソードというのは、友人が多ければ多いほどつくりやすいモノで(友人との楽しい思い出なんかを喋ればよいので)、ここで端から友人の少ない人との差ができる。そのあと、できる友人の数も雪だるま式に差が広がっていく。
 わたしは新卒入社で入った会社で入社直後、直属の上司に「学生時代、なにがいちばん楽しかった?」と訊かれて、答えに窮したのをいまでも覚えている(酒席でも新人のころは過去の人間関係についてよく訊かれる)。学生時代に人間関係絡みの楽しい思い出がマジでひとつもなかったからである。なかなかに陰鬱な学生生活を過ごしていたわけだが、それを開陳するわけにもいかず、その場で大学でやった研究の話を捻り出した。上司は「うーん……(よくわからん)」と、これ落とされるの確定だろうなあ……ってときの面接官の顔をしていた。この人が面接官だったら、わたしはこの会社から内定をもらうことはなかっただろう、そう思った。
 友人が多い/少ないにそこまで囚われる必要はない、と思うのだが、わたしの場合は、友人の多寡以前に人前で披露できる「自己開示エピソード」があまりに少ないということにとても大きなコンプレックスを抱いている。
 「自己開示エピソード」というのは、ある種の無形の資産である。なにかつらいことがあったときに心の支えになるのは、過去の友人たちとの心が通じ合った温かい思い出である。
 友人をつくるためには「自己開示エピソード」が必要であるし、「自己開示エピソード」をつくるためには友人が必要である。これはある種の「デッドロック」状態なのである。友人無しで「自己開示エピソード」でもつくってみるか?ひとりで他人に語れるおもしろエピソードつくってみるか!?少し勇気が必要そうだ。

了.


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