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【日記】GW最終日──メッセージのない自分勝手な文章──2021/05/05

また時期を外してしまった。。いつも私はこうだ。タイミングが悪い。目の前で目的地行きの列車が出発してしまったり、目の前で渡ろうとしていた信号が赤に変わってしまうとき、つくづく間の悪い人間だなと思うし、私の人生を象徴しているなとも思う。そんな私だからこそ、GW最終日の日記を今頃公開するという、タイムリー性が重視される内容において、タイムリー性を欠いた投稿をしてしまう。

1日のできごとを淡々と綴る。特に深い思考や考察の類いは一切ない。ちなみに私のスマートフォンでは「いっさいない」と入力すると、予測変換でいちばん最初に出てくるのが「ISSAいない」である。ちなみにちなみに、私はDA PUMPのファンではない。さてさて、そんなことはどうでもよかった。私の話はつい横道に逸れる癖がある。これでは目的地にたどり着くまでに大幅に迂回することになる。

しかし、残念、この文章にはそういった「目的地」がない。最近、実験的な試み──格好良く言うとこうなる──として、こういった「目的地」すなわち「メッセージ」のない日常雑記のような文章を投稿するようになった(単なる「ネタ切れ」ともいう)。

なにが「実験的」かというと、「メッセージ」を何も含まない、いわゆる「腑抜けた」文章でどうやったらウケが取れるのだろうか?、ということをテストするための実験だ。いくつか「メッセージ」のまるでない文章を書いてみたが、事前に予想していたとおり頗るウケが悪い。当然だ。記事を読みにくる人はなにか"おもろい"モノが読みたくて、あるいはなにか"役に立つ"モノが読みたくて、この記事のリンクをクリックしたり、タップしたりするはずだ。そうした期待に胸膨らませて開いた先にあった文章が、なんの思考も考察も主張もない、ただ単に日常起こったできごとを淡々と記述していく類いのモノであったときの落胆は筆者である私にも容易に想像がつく。

この落胆を打ち消す要素は何であろうか?
文体なのか、文章の奥に潜む筆者のキャラクターなのか、はたまた別のなにかなのか。私は読者の期待に"無理に"応えないことにした。こういうことは普通、売れっ子作家やミュージシャンなんかがいう言葉である。すでにヒット作や代表作をもっていて、知名度十分な人が「これからはお客さんが好むうんぬんより、私が好むことをします。結果として、お客さんを置いてきぼりにするかも知れませんが、付いてこれる人だけ付いてきてください」みたいな。最近、売れているアーティストにはこの傾向が強い。ポップソングを書いて、ある程度知名度を上げたうえで、自分の好きなこと、本当にやりたかったことをやる。だいたい前衛的な方に進んでいく。ポップソングである程度、ファンの心を鷲掴みにしているから、そういうやり方が通用する。

対して、私がやっているのは、どこぞの馬の骨ともしれない兄ちゃんがいきなり自分のヒット作も出さずに(ポップソング書いて人の心掴まずに)「お客さんが"おもろい"、"役に立つ"と思うかは知らんけど、自分の好きな(おそらくは、大半の人にとっては"おもろない")ことやりまーす!」と言ってるのと同じことで、noteをマネタイズしたいとか、売れたいと考えているヤツがやったら、ただの"痛い"ヤツだと思うのだけれども、私は文章を生業のひとつにしたいという思いは少なからずもっているものの、その場がnoteでなければならないという思いはそれほど強くはもっていない。文章に関わる仕事ができるようになれば、場所にはこだわらないという感じである。むしろ、noteは、他人がおそらく興味のないであろう、「個人の心情の吐露」とか、「淡々とした日常雑記の類い」をいかにうまく人に見せられるかの練習・鍛練の場として活用しているところがある。したがって、今回の文章も「自分勝手」な文章だが、こういう文章は、淡々とした日常雑記が読みたいという奇特な人だけ読んでくれればいい。

先日、ある大物編集者の方が「自分の書きたいことだけ書くのではなく、相手の読みたいことを書け。相手を想定して伝わる文章を書け。自分勝手な表現なら誰でも書ける」という趣旨のことを言っていたが、私はそれを無視して自分の書きたいことを書く。文章なんてモノは読む側が勝手に解釈する。いくらこちらがこう読んでほしいと思って書いても、相手の読み方を制御することはきわめて困難だ。私も読者に「こう読んでほしい」と思って、敢えて読み方をコントロールすることを意図したような文章を書くことがあるが、大抵は思い通りにならない。第一、文章は読み手の手に渡った瞬間、読み手のモノになるのだから、当然、読み手の好き勝手に解釈してもらって構わない。ちなみに、この文章は解釈の余地があるような文章ではない。日常を淡々と描いた日記だ。そして、「こう読んでほしい」「こう主張したい」という"メッセージ"が一切含まれていない文章だ。以下、それでもかまわんよという奇特な方だけ読んでもらえれば。

◼️ 起床

12時半起床。起きて間もなく洗面所に向かい、洗顔と歯磨きを済ませる。だるい作業は起きた瞬時に取り掛かるのが最適解だ。起きた勢いのまま、取り掛かる。その流れにのって風呂場へ向かってブラシを手に取る。風呂掃除だ。精神的にしんどい私でもいちばん手をつけやすそうな家事ということで風呂掃除が私に家事当番として割り当てられた。たまに起きられず穴を空けてしまうことがあるが、だいたいほぼ毎日こなせている私の数少ないルーティンだ。いつもは向かって左の壁面から磨きはじめるのを、今日は逆側の右側の壁面から磨きはじめた。それだけで少し新鮮な気分になる。特に単純作業は同じことをしていては飽きる。それを避けるための僅かばかりの工夫だ。洗剤も母からひとつの壁面に2プッシュくらいにしろと言われているのに反抗して思い切り4プッシュくらいしている。バレたら洗剤代を払わされるだろうが、バレなきゃいい。泡だらけになった風呂桶をシャワーで洗い流して完了。洗い流した水が反時計回りの渦を描いて排水口に吸い込まれていくのを見て自分は北半球に足をつけている人間なのだなということを実感する。中学理科では「コリオリの力」という言葉で習ったが、実はこの現象、風呂桶程度の規模だと、「コリオリの力」はあまり関係ないらしい。流体力学などを勉強してどういう条件のもとで渦が巻く方向が変わるのか研究してみたい。飛行機が空を飛ぶ原理は「ベルヌーイの定理」でおおよそ説明がつくらしいが、未だ厳密に説明されていないらしい。「お風呂の渦」含む流体の挙動を完全に知ろうと思ったら、「ナビエ・ストークスの方程式」を解く必要とかあるのだろうか?ちなみに、「ナビエ・ストークスの方程式」の一般解は2021年現在発見されていない。そんなことに思いを馳せながら、この風呂掃除、だいたい5分くらいでいつも終わらせる。

◼️ 居間にて昼飯

12時50分くらいに居間に戻ってきたら、母から「今日のお昼ご飯は昨日の残り物だから」ということを告げられる。用意された炊き込みご飯を電子レンジに放り込んでスイッチを押す。600Wで1分間くらいだから、炊き込みご飯が200 gくらいと考えると、炊き込みご飯を常温(20℃くらい)から60℃くらいまでに温めるのに加えなければならない熱が600W × 60 s =36,000 Jだから、このご飯の熱容量は36,000 J/200 g × (60-20) K=4.5 [J/g × K]ぐらいかな……とか暗算で計算してしまう。むかしからのクセだ。水の熱容量がだいたい4.2 J/g × Kだから、そう大きく変わらないんだなと妙に納得してしまう。炊いた白米に占める水の割合はけっこう高いだろうから、まあこんなもんか……という感じで。炊き込みご飯は、前回炊いたときより水分量を少なくしたらしい。その分、米の一粒一粒がちゃんと立っていて美味しい。タケノコ入りの炊き込みご飯だったから、コリコリした食感があって、昨日も食ったばかりなのだが、やはり旨かった。炊き込みご飯だけでは、腹が満たされなかったので、コンビニから買い貯めておいた冷凍食品の汁なし担々麺をレンジでチンして、それを食した。途中でお腹いっぱいになったので、半分くらい残して、夜に腹が減ったときにでも食べようと思った。

最近ではローソンの冷食シリーズがクオリティ・ラインナップともにお気に入りだ。ファミリーマートにはモカブレンドという美味しいホットコーヒーをよく買いに行く。120円。セブンイレブンは最近、お気に入りの商品のラインナップが消えてしまったし、弁当の大幅な上げ底など、業界トップの座に胡座をかいて、あまり企業努力をしようという姿勢が見えてこないので、利用頻度が一気に下がった。セブンイレブン等の大手コンビニチェーンがやっている売れるかどうかわからない地域にフランチャイズ店を出店させて、その地域が売れる地域だとわかったら、直営店を出店させる戦略のことを「ドミナント戦略」というらしいことを恥ずかしながら最近知った。フランチャイズ店は直営店の出店によって売り上げが減少するので、経営が困難になるらしいが、セブンイレブン本部は儲かるので、こういうエグい戦略がとられるらしい。最近は、わからないことが出てきたら逐一調べるということを習慣づけるようにしている。この歳になってもわからないことは山ほどある。わからないことを調べるというのが勉強の本質で、これをやらないことには、ずっと阿呆のままで一生を終えるということに危機感を覚えはじめたのは比較的最近のことだ。

◼️ GW最終日、弟出かける

昼飯を食べ終わって13:30ごろになったころ、GW最終日の弟が起床してきた。前日の晩、「明日(5/5)はひたすら現実逃避する。一歩も外に出ずにYouTubeで好きな動画観まくって1日を過ごす!」と言っていたが、今日になって「先日出掛けたときに失くしたイヤホンを買い直しにいく」と言い出した。友人の車に乗っているときに急ブレーキを踏まれて、その際にカバンの中身が飛び出したときに一緒になって飛び出してしまったそうだ。すぐに友人に連絡して車内を探してもらうように頼んだらしいが、友人から今日になって「探したけどなかった」との連絡がきたそうだ。かなり小ぶりのワイヤレスイヤホンで、しかも色が黒だから見つけるのは大変だろうなと思った。その友人とは仕事が忙しくしばらく会えないらしい。だから、仕方なく新しいイヤホン(5,980円)を買いに行くらしい。前日に行ったパチスロで7,000円の勝ちだったと聞いていたから、その勝ちをほぼ帳消しにするくらいの出費だ。まあ、赤が出なかっただけマシだろう。とかなんとか会話していたら、弟は出ていった。

◼️ なにもすることなく手持ち無沙汰な私

そのあと、2時ごろから3時ごろまでは両親の居室の間にいたが、なにをしたかほぼ覚えていない。正確にはなにもしていなかったのだと思う。普段、父とは世間話をするのだが、その父も最近は嬉しいことに仕事に追われているらしく、ずっと無言でPCの画面に向き合っていた。母は母で最近は『ポケモンGO』にハマっているので、ずっとゲーム画面を注視して、時折画面をタップしたり、スワイプしたりして指を動かしていた。なにかに集中している人間を邪魔するのは悪いと思ったのと、家族の中でなにもやることがなく、手持ち無沙汰だったのが私だけであったので、なんとなく居心地が悪かった。この場にいても意味はないが、誰か人に囲まれていたかったので、その場に30分ほど居座ったが、なにも発生しなかったので、自室に移動し、なにか好きなコンテンツを観たり、勉強でもして少しでも時間を有意義なモノにしようと思い、自室に戻った。

◼️ 自室に戻ってなにかをしようと試みるが……

自室に戻って、PCとテレビを繋げてDAZNでも観ようと思い、コンテンツを漁っていたが、その時点(15時ごろ?)で、生(ライブ)で放送されているコンテンツはなかった。仕方なしに過去のコンテンツを観返そうと漁って、いくつか観てみたが、やはり予想していたとおり、内容が頭に入ってこなくて楽しくない。

DAZNは諦めて、本を読もうと手元の書籍を開いた。『英語の読み方』というタイトルで、この間、冒頭数ページだけ読んだところ、「日本人が『英語は読めるけど、話したり、聴いたりができない』というのは、そもそもリーディングのスピード(英語を理解するスピード)がネイティブに比べてめちゃくちゃ遅いからだ。平均的なネイティブなら大学入試センター試験の英文なら約20分で、共通テストの英文なら約30分で全文を読みきってしまうが、多くの日本人はこれらを読みきるのに彼らの3~4倍の時間を費やす。つまり、英語を理解する速度がネイティブの1/4~1/3程度しかないのだから、ネイティブが喋る英語を理解できないのは当然だ。もっと読む速度を上げなければならない」というようなことが書かれていた。今の私には打ってつけのタイトル・内容の新書であったが、これも15分ほどチャレンジして、文字が全然頭に入ってこないので、読むのをやめた。

続いて、英語の勉強をしようと長文読解の参考書を開いたが、テキストの文字数に圧倒されて、テキストを閉じた。ここ最近(2,3週間)、無気力期間が続いていて、英語の学習にもあまり手をつけられていない。これは非常にマズいという焦燥感が募るばかりで、肝心のテキストが頭に入ってこない。そんなことを考えていると、母が自室に入ってきて、「あんた、最近英語の勉強どうなの?進んでるの?」と進捗を尋ねる質問をしてきた。今の私にとってはイヤな質問だ。私は正直に「ここ数日はほとんど一切手をつけられていない」と答えた。母はがっかりした表情を一瞬見せたが、「なら、明日の昼にでも私と一緒に勉強でもするか?長文でも単語でもリスニングでもなんでもエエからやろ」と言ってきた。母から勉強を勧められるなんて、思春期の中高生かよ……と思いながらも、独りで勉強するよりは勉強に取り掛かるハードルが下がるので良いかもしれないと思って「じゃあ、頼むわ」と答えておいた。

◼️ 湧き上がってくる不安への対処

と同時に、約束してしまった以上、またあの読めない本と30分以上は向き合わなければならないことが確定してしまったため、胸にズーンと重しを乗っけられたような気分になった。「気分が重くなる」とはよく言うが、あれはいったいどういう現象を指しているのだろう。精神疾患は「こころの病気だ」とはよく言われるが、起こっている現象的には、あれは「脳の病気」である(と少なくとも私は思っている)。脳内で特定の神経伝達物質が不足する等するから、情動に異常をきたす。ということを考えれば、「気分が重くなる」というのも、脳になんらかの変化が生じていると考えていいだろう。まあ、不安かなにかの一種だろうと思って、頓服の抗不安薬を1錠だけ摂取したら、症状がある程度収まったので、ひとまず安堵した。

こういう対処ができるようになったのも、これまでの経験上、大きな落ち込みが来る「前兆」として、胸が重くなる、胸がざわざわする、胸に湿った砂を詰められたような感覚がする、ということが多々あったからだ。この「前兆」が「前兆」であるうちに、薬を服用する等して症状を抑え込まないと、大きな気分の落ち込みやうつ状態に入るということが経験上多い。これは特にイヤなできごとがなくても発生することがあり、非常に厄介な性質だ。明確なトリガーがあることもあれば、そうでないこともある。私はこの病気をして薬を飲み始めてから、そろそろ4年が経つから、この異変に目敏く気づいて、前もって処置を講じて、大きな落ち込みを避けるということはだいぶ上手になった。

◼️ 喫茶店にてこの文章を書く

そのあと、どこかへ気分転換にでもいこうと思って、自宅から歩いて行ける範囲にある喫茶店に赴いてこのnoteを書いている。最初は勉強でもしに行こうと思っていたのだが、結局手に持ったスマホで文章を書いてしまう。私にとっては、少なくとも今のところ、勉強することより、noteに文章をしたためることの方が、圧倒的にハードルの低い行為なのだろう。喫茶店では、ポット入りの紅茶(500円)を頼んだ。ポット入りなので、カップ2~3杯分は飲めるから、随分お得だ。1杯目と2杯目はストレートで、渋くなってくる3杯目はミルクを加えてミルクティーにして飲むことが多い。座席はだいたい窓際の隅っこを狙う。外の景色が見られて開放感があるのと、お店を広く見渡せること、壁に囲まれている安心感などが理由だ。

このほど発出された緊急事態宣言の影響もあってか、喫茶店内はいつもより人が少なかった。ガヤガヤしている喫茶店とかタバコの煙臭い喫煙席などで作業をするのが、わりと苦にならないというか、むしろ好きなタイプなので、賑やかさに欠けた喫茶店は私には少し寂しく感じられた。

◼️ ノイズの重要さ

なんでもそうだが、静謐でクリアな空間よりも、多少ノイジーで淀みのある空間の方が私は好みだ。ある種のノイズだとか凸凹感というのを私は何事においてもけっこう大事にしている。不必要なモノがまったく含まれない空間・芸術は綺麗ではあるが、面白みに欠ける。引っ掛かりがないともいえる。特徴がない人は、誰からも嫌われないが、誰からも好かれはしない。たぶん、これと同じ。(ちがうか!?)

◼️メッセージのない自分勝手な文章

私は端くれながら文章の書き手であるから、文章について述べるが、引っ掛かりとなるノイズがあるとともに、コアになるメッセージ(伝えたいこと)も多くの人から共感を得ようと思ったら必要だろう。多くの人は、文章に込められたメッセージに共感する。今、私は日記を書いているが、この文章には、コアになるメッセージがない。だから、あまり、スキもつかないだろうし、PVもそんなに伸びないだろう。ひとつこの日記に意義があるとすれば、日常の何の変哲もないできごとを題材にして、いかに調理をするかの練習という私にとっての意義であって、読者の皆さまにとっての意義ではないであろう。したがって、これは人に読ませるための文章ではない。私の勝手な思考メモだけれども、覗きたいという物好きな人たちはどうぞ覗いていってください、という自分勝手な文章である。

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