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貴様に伝えたい 俺のこのキモチを【ネガティブな自分に打ち克つ心理療法】

タイトルは、私の敬愛するミュージシャンである向井秀徳氏の『Kimochi』より拝借した。

以下、私が心理面接の際に心理士に渡した簡単な自己分析のメモである。
新しい心理士に自分のことをわかってもらうために書いた。
この文章の思考経路をそのままたどれば、自己分析ってこういう風にやるんだ……!というのが掴めるかもしれないし、掴めないかもしれない。
(ブレインストーミング的に一発書きで書いたので、読みにくいところがあれば申し訳ない)

とりあえず、心理面接ってこんなことを取り扱うんだ~という雰囲気だけでも感じられるようにできるだけ詳細に書いた。単に読み物としても面白いと思うので、ここまで読んで読む気になった方は以下、読んでいただきたい。

23年3月某日、カウンセリング用メモ
担当心理士:M先生
以下、所々文語調ではなく、口語調ですが参考になるかもしれないので 

──本文「ネガティブな自動思考に対する反論が下手くそ

私は自動思考に対する反論が下手くそ。自分を分析するときには複数の自分を自分のアタマの中につくって侃々諤々と議論させられるんだけど、他人に言われたことになると「ああ、そうなんだ…自分はゴミだな」って安易に思ってしまう。反論が思うようにできない。あれってどうやったら直せるんですかね?やっぱり、場数踏んで練習するしかない?それとも練習するにしても何かコツがある?
なんか、たぶん、根本的なところで「自分の価値<他者の価値」と考えているところがあると思っているので、そこが原因なのかな?と考えている。この考えは何らかの<原体験>に由来していると考えることができるが、それはなにか?
おそらくではあるが「*無条件の承認」というものが私の心(脳)の基盤にないのだと思う。承認を得るためには、なにか人よりも秀でた所を見せつけないといけない。それが健全な場合は勉強であったり運動であったりするのかもしれないが、(健全でない場合は)ときに暴力であったり言論による論駁であったりする。言い換えるなら、権力的であり、権威的でない。力で他者をマウントしてる感じ、わかりますよね?あれができているときは良い(?)が、できないときはきわめて苦しい。他者に抑圧されている感じになる。己を出せなくなる。引きこもりや他者との関わりを拒絶するようになる。現在置かれている状況もこれに近い(ような気がする)。

──補足:「無条件の承認」の不足(?)について

*無条件の承認の不足
→条件付き承認のみを得る
(∴条件を満たしたときのみ価値が発生するとの認識を強化)
→他者から叱責されたり、注意されたり、否定されたりしたとき、「条件を満たせない」と認識する。即ち、「自分には価値がない=私はゴミだ」という思考に至る
→これに反論したい。
「私はゴミではない。なぜならば~」という思考がストレスに対したときに反射的に出てくるようにしたい。そして、反論するときに自己を肯定できる引き出しを増やしておきたい。そうすることで、反論が容易になる。

──ここから先、余談。「ネガティブな自動思考に対していかに反論するか?」

この「ネガティブな自動思考に対する反論の引き出しを増やす」ことは、言うは易く行うは難しである。私の場合、「私はゴミだ、何の存在価値もない、すぐに死ぬべきだ」という考えが強固すぎて、これをなかなか打ち崩せない。たぶん、変に論理的な分、私の中にいるネガティブな私もなかなかに論理的であるから、これを論破(というか、説き伏せる)のが難しいのだと思われる。ポジティブな私は何某かの成功体験やなんやらを引き合いに出して、「ほら、キミはなかなかのことをやってきたじゃないか!ゴミなんかじゃないよ、生きて!」と言うんだけれども、それよりもはるかにネガティブな自分の方が強い、というのが現状である。これは理屈の問題ではなくて、価値軸(価値基準)の問題であって、たぶん、おそらく私の人生を振り返ったときに他者より秀でていたこと、というのはそれなりにあるのだが、それを「評価しようとしない」ポジティブサイドの私がいるから、ネガティブサイドの私の「お前はゴミだから死ね」という自動思考に簡単に支配されてしまうのだ。
 
で、「自分のできたこと/やってきたことを評価しようとしない」のは、「世の中の価値観」というものに自分自身が吞まれてしまっている、つまり、自分でよくよくモノを考えて、深い思索を巡らせて、自分の<哲学>を構築するということをやっていないからだと私は予想する。世の中の大半の人間はこういうことをやっていないのだが、それでも社会に適応していく。それは「世の中の価値基準」にしたがって、そのなかで100点満点とはいわないまでも、及第点を取れるようにうまく自己を変形させているからだ。
 
一方、私のような「世の中の価値基準」のなかで完全な敗北者となった者は、どうすればいい?そう、やはり先に述べたとおり自分の<哲学>を構築し、それにしたがって生きるのだ。たぶん、そうするのが(時間はかかるが長期的に見て)いちばん「幸福」に近づけるのではなかろうか?
──余談ここまで。

──「無条件の承認」をどう得るか?

*話を戻そう。

*いちばん最初の「無条件の承認」(これがないこと=「穴の空いたバケツ」になる⇒他者からの条件付き承認により自己肯定感が上昇せず、否定されたりしたときに上手く自動思考の反論が機能しない)というのは、成人してからは得るのが極めて難しい(ほぼ不可能である)と考えているので、何か代替になり得る手段等あるか?

私の中ではこの「心の穴」が未だに埋まりきっていない感覚がすごくある。両親のうち、父は子供(という生き物)がそもそも嫌いであった。赤ん坊なので、よくオムツを変えてもらったりするのだけれど、その度に怒鳴られて(怒鳴られているのは私ではなく母であったが)なんとなく居心地は悪かった。母は私に愛情を注いでくれたと思っている。ただ、それをあまり言葉にする人ではなかったように思う。些細なことではあるが、誕生日におめでとうとか、何か手伝ったときにありがとうとか、学校の勉強よくがんばってるなとか、そういう言葉をかけられた記憶がほとんどない。誕生日にプレゼントは一応くれるのだが、それをポイっと投げるだけというような感じであった。

上に挙げたような事例は、どこの家庭でもあるようなことだと思うが、なぜか私の場合、それを「無条件の承認の不足」と捉えてしまったようだ。
私の人間関係の多くが破綻してしまうのは、このとき足りていなかった承認を他者に(まだ、その人との関係性が熟成する前に)求めてしまった結果であることが多いと今になって分析している。こっちが仲良くなったな…と思っていても、向こうはそうは思っていない、みたいなことが学生時代から何度もあった。自己主張ができないとか、友人や恋人ができないとか、大勢の中での共同生活が耐え難い苦痛であるとか、そういうものはだいたいこれが原因であるように思う。

人間関係の話でいうと、「友人・恋人ができない」というのは、最も問題であるのは「個性の発露ができていない」ということである。「個性の発露ができていない」から、他者から見てその人がどんな人物か見えてこない。どんな人物か見えてこないから深く付き合おうとはしない。逆にいえば、どんな人物か見えてしまえば(個性が発露すれば)、必ず誰かがそれに惹かれる。万人に嫌われる個性などないからだ。その証拠に犯罪者にだって、恋人だったり配偶者だったり友人だったりがいる。個性を発露して、"できるだけ多くの人に見てもらう"こと。

このために必要なのが自信である。自信があれば臆することなく、自分の個性を発露させることができる。恥かきたくないとか、能力を低くみられたくない(舐められたくない)とか、取り繕ったことばで喋るとか、そういうのを全部捨てろとはいわないが(恥をどう隠すかも個性だから)、少なくともそれらがブレーキになって、個性の発露を邪魔している状態は自信を持つことによって解除される。

それで、自信をどうやって手に入れたら良いのかという話で、これがなかなか難しいのだが、私からひとつ回答を出すのであれば、何かひとつ集中する(一心不乱に取り組む・没頭する)対象をつくることだと思っている。だいたい、趣味なんかがそうだが、趣味だと(熱中できればなんでもOKではあるのだができれば)YouTubeとかNetflixみたいに受動的に消費する趣味よりも、文章を書いたり、絵を描いたり、動画を編集したり、何かを創ってみる能動的な趣味の方が自信の向上に寄与すると思う。まず、得意なこと(=呼吸するようにできること)を何時間かやるだけで、やり終わった後は達成感が生まれる。一種のフロー状態に入ることによって脳内の神経伝達にポジティブな影響をもたらすのではないかと推測する。

あとは心理的安全基地の確保が自分はできていない(「無条件の承認」と同じ話かな?)。もう極めて下手くそ。「あなたがなにを言ってもこの場ではゆるされますよ」みたいな感覚が自分には一切ない。だから、家族と数人の友人と病院の先生・スタッフさんを除いて、私は人と会う前にガタガタ震えが止まらなくなるほど緊張する。特に大人数での集まりは苦手だ。酒席等では一言も喋らず、隅っこで黙って飲んでいることが多い。
だけれども、精神科医や心理士の先生にはこれだけ話してしまう。これは私にとってこの病院では「心理的安全性が保たれている」ということで、家族の前、親友の前においても同様である。

この心理的安全性を自覚するだけでコミュニケーションがめちゃくちゃ円滑に進むだろうし、これもどう獲得すれば良いのか?自分の問題なのか?場の問題なのか?両方なのか?いずれにしてもどうアプローチしていくべきなのか?他にもコツがあれば教えてほしい。

心理的安全性の問題だけれども、前任の心理士の先生(K先生)とスキーマの分析を行ったことがある。このとき取り扱ったテーマが「会社の同期との飲み会の二次会でカラオケに誘われて嫌だったので断ったが無理やり連れていかれた結果、1曲も歌えずに同期に罵られた」であった。
で、スキーマを炙り出してみた結果、
「自分に他者を侵食させたくない。させると相手の言いなりになってしまう。言いなりになってしまう状態が続くと、私の怒りが爆発して最悪相手を殺してしまうか、我慢が過ぎて破裂(自殺)してしまうのではないか?」

「結局、生死に関わるから怖いのだ」
という結果がでた。
(因みに、このスキーマは心理士との面談の結果、やや修正されて「仮に失敗してなにか恥をかいて、相手に侵食されることはあったとしても、死にはしないし、相手を殺すことにもならない。自分なら状況を打開できるはずだ」というようなモノになった)
 
でも、未だに「人前で失敗したり、世間一般の価値観からして劣っていると思われるようなことをすること」に物凄く抵抗がある。現に同窓会のようなモノには一切出席できていないし、学生時代の(そう多くない)友人にも(会うのが怖くて)ほとんど会えていない。

──躁と鬱の分類(定義)

躁鬱のどのような状態が望ましいのかを考えるにあたって、躁と鬱というモノを自分なりにきわめてシンプルではあるが(考えるときはモデルはシンプルな方が操作しやすい)、以下のように分類(定義)してみた。

躁と鬱は感情の矢印(→)の向きと量(本数)で定義する。(下表)

表. 感情の矢印の向きと量による躁鬱の定義・分類.

この表にしたがうと、外側の事物に少ない矢印が向けられているときが、最も精神的安定を保てている(ことになる)。

──関心の対象と精神的安定性

人物に対する関心(自分含め)よりも、花鳥風月(自然の事物)や人工物(芸術・音楽)等に関心を寄せているときの方が、心は穏やかである(ことが多い)。
因果の方向は、「花鳥風月(自然物)や人工物(芸術・音楽)等に関心を寄せている<から>心が穏やか」なのか「心が穏やかだ<から>花鳥風月(自然物)や人工物(芸術・音楽)等に関心を寄せることができる」のかはわからない。両方かな…?、と思っている。

──内省は精神的健康によいのか?

上記の考え方をするのであれば、「内省」というのは「自分に関心を寄せること」であるから、あまり精神的健康によい影響を与えなさそうである。カウンセリングでやっていることも心理士の先生とともに内省していると言ってもよい。
私自身、哲学や精神医学、脳科学、および心理学、遺伝学含めた生物学などに(も)関心があり、そういった方面から<自分>というモノ、言い換えれば、「自分の脳内で何が起こっているのか」を解明して、記述したり、それを他者に説明したい、という欲求に駆られることがある。
「こういうことは、精神的安定性にとってよくないことなのか?」と言われれば、私は一概にそうとは言い切れないと思っている。でなければ、カウンセリングというのは無意味だということになり、臨床心理士だとか公認心理士という職業はこの世からなくなりそうなモノである。また、内省≒自分に関心を寄せることは、短期的に効果を発揮しないまでも、長期的にジワジワと効果を発揮するモノであると私は考えている。

 ──内省のよい面<カウンセラーからコミュニケーションスキルを盗む>

私の場合は、コミュニケーションスキルに明確な上達がみられた。これは、カウンセリングを通じて、カウンセラーのコミュニケーションスキルを観察し、自分に真似できそうな部分をコピーした(有り体にいうと“パクった”)。

──内省は他者を介して行うこともできる(むしろ利用すべき)

「コピーした」というと、それは「内省(自分の内側に関心を向ける)」ではないじゃないか!?と言われそうだが、たぶん私は内省をしている。内省という行為は、自分ひとりでやるものと思っている人が多いが、案外そうでもない。むしろ、自分を映す鏡としての<他者>がいてこそ、より効果的な内省ができる。会話中に対面している他者(相手)の発することば、見せる表情・しぐさ、諸々。それらは、自分が他者にとってどう映っているかの情報そのものであり、そこを介して私は自分というモノを知る。自分には○○というクセがあるのだな。それは、感情が昂っているときに出やすいのだな。そして、そのクセは大抵の場合、相手によい印象を与えないのであるな。とか。自分を見る<鏡>は多ければ多いほどよい(と私は思っている)比較することで精度が増すからだ。正しい情報を知るために、たくさんの本や文献、論文等をあたって比較するのと同じ。数学的な用語でいえば、大数の法則だ。試行回数を無限大に近づけると、平均値(期待値)に近づく。大きく的から外れている情報を除外することが可能になる。私の場合は、カウンセラーや家族や少数の友人、という<鏡>を使って、自省を行った。

──カウンセラーからパクったコミュニケーションスキル

基本的に相手の言っていることを否定しない。会話というのは相手のターン↔自分のターンというターン制のゲームである。相手のターンのときは口を挟まない。相手に言いたいことを一度全部吐き出させる。会話のテンポをわざと速くしたり、ゆっくりにしたりする。特に相手が興奮している場合などはゆっくりにすると、相手の気持ちの昂りが鎮まることが多い。適当なタイミング(ピリオドやカンマで)相槌を入れると相手は同意・賛意を感じ、気持ちよく喋れる。相槌の内容は、慣れないうちはオウム返しをしてみよう。とりあえず、相手に「あなたの話をちゃんと聴いてるよ」というメッセージを言語・非言語によって伝えるのが大事。このあたり。私も常に上記を実行できているわけではないが、これらを意識して相手との会話に臨むようにした結果、コミュニケーション(特に「怒りっぽい」と言われている人とのそれ)における失敗がかなり少なくなった。時には御するのがむずかしい相手に対しても、相手の話をうんうんうん……と聴きながら、隙をみて自分の主張を差し込む、みたいなこともときどきできるようになった。

──内省のよい面<想像力の向上と自意識過剰さに磨きがかかる>

もちろん、コミュニケーションの上達にはカウンセラーから技術を盗むことのみならず、自省による自身のコミュニケーションのクセ(中でも相手に悪印象を与えるであろうクセ)の修正も寄与している。私の発達特性からいって、平均的な人の2/3くらいのスピードで発達が進む、というのをどこからか聴いたことがある(出典は忘れました!スミマセン!)ので、だいたい30歳のいま、他の人が20歳くらいのときの精神年齢に達しているのかな?と思う。それもあって、自意識過剰さに磨きがかかったように思える。「自分の言動が他人からどう見えるか?」「いまの発言は独りよがりじゃないか?」などを思い浮かべる回数が増えた。

あとは想像力。「自分がいまこの言葉をいったら、〇〇という立場の人がもしいたらどう感じるだろうか?」みたいなことが、発言する前にスマホのポップアップ通知みたいにして、ピコッと「あなたの発言しようとしていることには、□□という特定の立場の人を傷つける可能性のある言葉が含まれていますが、本当に送信しますか?→はい/いいえ」みたいな、発信前の一言確認みたいな装置が自分のなかに仕込まれるようになって、自動的にそれが作動するようになった。たぶん、これも自省による成長だと思う。

 ──自分の経験→自省→深慮・俯瞰(ポジティブな「傷の舐めあい」)

なんで、上記の成長が自省によるモノかといえるのか?といえば、やはりひどい鬱を経験したことが大きいのではないかと思う。今すぐ「自殺したい(それ以外に苦痛から逃れる手段はない)」と考えるくらいには追い詰められて、実際に自殺を何度か企図した。仕事も失い、社会的には誰かに助けてもらえないと生きていけない、文字通りの<弱者>になった。自分が今までなると思ってなかった立場に自分がなってしまった。このことは、精神病に限らない、他の種類の<弱者>の存在に思いを馳せるきっかけになった。私は、精神障害者だけれども、他にも身体・知的などいろんな障害者がいる。また、障害として認定されてなくとも、(たとえば、私が会社員だったときのように)生きているだけでもひどくつらく、しかもそこから逃れることができない、という人は、この世にたくさんいるだろう。親から虐待を受けている子供とか、そこまで行かなくてもなんか仲が悪くて居心地が悪いとか、めちゃくちゃ借金をしていて返せる見込みがないとか、貯金もないのにリストラされて再就職先も見つからないとか、いろいろ。いろいろな<地獄>を各々が見ている。見ている<地獄>が各々違うだけ。

こう思うことによって、他者への接し方(コミュニケーション)もそうだし、想像力も磨かれる。想像力が磨かれることは単に深慮が可能になるだけでなく、卑しい話、自分以外にも<不幸>な人はいるのだ、という話にもなる。人間、自分が世間一般の価値観(価値基準)でいうところの<敗者>になったとき、「他にも自分と同じような<敗者>がいるのだ……」ということに気がつくと、妙に安堵する生き物である。「傷の舐めあい」ともいうけれども。想像力によって、「傷の舐めあい」が可能になることによって、我々には<逃げ道>ができる。

言い方は悪いがこれはけっこう重要なことである。実際に、私はTwitterをやっていたときに躁鬱病であることを公表して、同じ病気の人や似たような病気の人に「自分とおんなじ立場の人がいるんやと思って安心しました」と言ってもらったことがある。かくいう私自身も上を見て歩く元気はないので、境遇の近しい人を見かけたときに「自分だけじゃないんだ…」と安心してしまう。

──人はなぜ自殺するのか?(自省によって<逃げ道>をつくる)

(以下、前の記事と同じ文言)

人間は<逃げ道>を塞いでしまう(塞がれてしまう)と簡単に自殺する。
仕事をやめたくて仕方がないのに仕事をやめられない状況であったり、特定の人間との関わりを断ちたいのに同じところに居ざるを得ない状況であったり。
究極的には「死にたい」という感情が、生きていることの苦痛から逃避したいのに逃避先がこの世にないからあの世に行く他ない、というモノであるわけだから。

<逃げ道>をどこかにつくること、もしくは誰かのためにつくってあげること。そのために、自省によって磨かれた深慮・俯瞰する力は役に立つ。コミュニケーションの力によって、自分の手で搔き分けるように途をつくることもそうだし、自分と同じくらい苦しい人たちがいると考えることでその人たちに寄り添ってもらうこともそう、「人生ほどほどでええねん、100点とろうなんてお前は自分のこと超人かなんかやと思ってんのか?ボチボチでええ」と自分を納得させる(脳内のもう一人の自分を強くする)のもそう。(※私自身はここに苦労しているが……)
 
※あとは、自省の長期的な効果のひとつ(代表的なモノ)として、「認知再構成」や「自動思考への反論」というのがあるが、私はこれらが未だに下手くそであるというのは、上述した。
自省も精神的に安定状態のときに行わないと、
自分の現状がダメである→その理由は自分の○○というダメな部分があるからだ→〇〇を直すためには△△しなければならないが、それすらできない自分はゴミだ→自分は存在価値がないし、今後もよくなっていく見込みがないから死ぬべきだ。みたいな「負の思考のスパイラル」に陥りがちなので、元気なとき、少なくとも、できない自分を許せるときにやらないといけない。

以上。俺のキモチを言語にした。

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