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#3 1981年 就職もしないで「エスパレイザー」の製作に終始

この年でわたしは明治大学を卒業した。結構要領はよく、単位はすべてとれ四年で卒業というわけだ。留年を何年もしている先輩たちもいた中で、だぶらないで出れるなら出ちゃおうということだ。友人たちは就職しているというのに、どうするのか。親はまだ猶予をくれ、やれるだけやってみろという。これはしかし、どうでもいいわけのわからない映画を作っていたら許されないと思うのだ。超メジャー俳優の石坂浩二、超メジャー漫画家の桑田次郎が、息子の映画に協力しているのだから、「この子はなにかある」と思うわけだ。わたしが親でもそう思う。まんまとすねかじり作戦は成功したのだ。
しかも、一年留年したと思えばもう一年学費を出してもらう余裕はあるはずと、明治を卒業してから某写真専門学校に入学することにした。しかしこれはわたしにとってはあてが外れた。どういうことかといえば、こちらは映画がよりよく撮れる環境を求めていたのだが、16ミリカメラを使いたくても実習用にしか使えない。学校の教室も借りれない。カリキュラムが組まれており、それ以外のことには対応しないのだ。そりゃ当然だ。学校も商売なんだから。しかも、本気で映画を作りたいという学生はほとんどいなかった。まあ、映画に限らず専門学校の実態はそうだろう。資格がとれるならともかく、映画など資格がとれてすぐ働ける世界ではない。その中でもやる気のある友人たちに出会えたのがかすかなメリットだが、あとはない。
こちらは『エスパレイザー』を完成させなければいけないのだ。決定的だったのは、16ミリで短編を班に分かれて作り、上映し発表する授業があるのだが、そこでわたしはイタズラをした。『ウルトラマンA』のラッシュフィルムを持っていたので、それを上映した。すると先生がそれに気が付かず「この班はよくできている」と言ったのだ。アホである。もうこんなところにはいられないと、退学した。しかし、社会の矛盾、大人の建前というものにはじめて接したのがおおいに学ぶところであったのだ。

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エスパレイザー』の本編ロケは、明治大学のほか中央大学和光大学関西学院大学などいろいろな大学で当然無許可で行った。いまはいちいち許可がいるわけだが、いい時代だった。特撮の見せ場は、夜のビル街でエスパレイザー同士が激突し、ビルが粉々にくだけるシーンだ。特撮の上松氏と打ち合わせし、プロと同じ手法で、石膏でビルを作ることとなった。しかしこれがおそろしく手間のかかる作業なのだ。当然撮影スタジオなどはなく、上松氏とわたしの自宅の一室に組む。完成したら、爆破用に調合した火薬を仕込む。この火薬ももちろん、自主映画で知り合ったアクション映画専門の方にやってもらったのだ。調合した火薬のカプセルをうけとる様など、赤軍派に間違われてもおかしくない。撮影は8ミリカメラの名機といわれたZC1000を二台使用しでハイスピード撮影する。爆発の撮影を実際に見たことある人は少ないと思うが、とにかく尋常でない大きな音がするのだ。そして爆破のその瞬間、破片が部屋中に飛び散るのだった。本当に危険で無謀である。家人はどうしていたのか。「今から撮影で大きな音するから」の一言である。当時はロックなどのレコードを大音響でかける人など珍しくなかったから、それで通用していた。しかし、爆破特撮のノウハウはプロでないからなく、何回も失敗を繰り返し、その都度何個も石膏ビルのミニチュアを作る。気の遠くなるような作業だった。なにしろいいカットが撮れてもわずか数秒しか使えない。すでに製作開始してから二年になろうとしている。映画は完成しないと映画ではないのだ。そこには建設的な妥協が必要だった。しかし、上松氏は職人気質で完璧主義者である。彼との衝突は時間の問題だった。

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この年、特撮ファンの活動はさらに活性化し、中野公会堂で「アマチュア連合特撮大会」が開かれた。山田正巳くんをはじめ、のちにプロ活動にはいった人はほとんどここに参加していた。ちょうどわたしの誕生日、8月15日の開催日に、シュールな出来事があった。スタッフとしてわたしは駅前にゲストの巨匠・ゴジラの本多猪四郎監督をお迎えに行った。すると、横にひからびたミイラのような人が、監督の横にいる。なんとその方は、東宝特撮で有名な脇役俳優の大村千吉さんだった。『三大怪獣地球最大の決戦』での帽子をとりに行く男、『ウルトラマン』のゴルドンの回の狂う男、『怪奇大作戦』も同様、最高の演技者である。猛暑の中、大村さんは本多監督に、「いやー先生はすばらしい」などと終始ヨイショしていた。スリーショットで会場まで歩いたシュールな絵は忘れられない。

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エスパレイザーのスーツは二着完成した。仕上げは品田冬樹にまかせたが、彼はこの当時水道橋の『銀英社』という出版社に勤務していた。ここは『ファンロード』という、同人誌文化をとりいれた画期的なオタク雑誌を編集していて、Kさんという名物編集長と、伊藤秀明さんという『サンダーバード』などの21世紀プロダクション作品の専門家がおられて、わたしたちは毎週のようにバカ話に興じていた。二体のスーツを着て、夜間に水道橋の路上でエスパレイザーの写真を撮影したりしたものだ。

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本編の撮影以外にもやることは山ほどある。わたしは完成したら池袋の映画館文芸坐ル・ピリエという劇場で公開しようと交渉をはじめた。文芸坐は当時、特撮映画のオールナイトを多く上映しており、特撮ファンのメッカになっていた劇場だ。そこでの上映は、光栄なことだった。そのためには予告編を作る必要があるし、チラシ、パンフレット製作、宣伝なども進めなければならない。そして石坂浩二さんに追加で予告編のナレーションもやってもらうことにした。当時広尾にあった石坂さんのお宅に一瀬氏とともにお邪魔すると、当時の奥様・大女優の浅丘ルリ子さんがいらして、実家から持って行ったふぐを一緒に食べたりした。これは、映画製作の華やかな部分。きつい部分は、やってもやっても終わらない地味な汚れ仕事の石膏ビルの製作作業だ。

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この年、一瀬氏の誘いで、石坂さんの主演ドラマ、NTVで放映された『俺はご先祖さま』の撮影現場に遊びに行く機会もあった。渋谷のいまはなきビデオスタジオに組まれた家のセットで、石坂さんは共演のマリアンと撮影しておられ、こんな楽しい世界はない、と思った。石坂さんはまさに一流芸能人のオーラでピカピカしていた。
エスパレイザー』の予告編は完成し、様々なアマチュア上映会で流していたが、ある日、週刊ヤングジャンプの企画で、なんとルーカスとスピルバーグに見せるショートフィルムを募集という、まさにアメリカンドリームの企画が発表された。『エスパレイザー予告編』は、350本ほどの応募のなかで20本に選ばれ、新宿スタジオアルタでのイベントで上映されたりしたが、それでハリウッドに行けるわけではもちろんない。スピルバーグとルーカスのほか、『エレファントマン』のデビット・リンチ監督が見たという報道もでた。
この年12月23日で『エスパレイザー』はクランクインしてから二年。来年にはなんとしても完成させなければならない。『エスパレイザー』は、わたしの大学の卒論とでもいうべきものとなっていた。

1982年 「エスパレイザー」ようやく完成!

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