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#2 1979年 8ミリ映画上映会全盛期、大作『エスパレイザー』に着手

√ウルトラセブン放浪の果てに…』の初上映は、1979年の4月15日で、『フウト』の上映会場と同じ明治大学生田校舎の工学部2003番教室で行われた。朝から夕方まで、円谷プロから借りてきた16ミリと『フウト』、そして市販のウルトラシリーズの8ミリを交互に上映。当然当時はビデオも普及していなく、映画は上映会場まで行かなければ観れない。「ぴあ」に載せた数行の情報だけで、約130人のお客が来た。

上映プログラムは、『ウルトラQ』ガラモンの逆襲、『ウルトラマン』小さな英雄、科特隊出撃せよ、地上破壊工作『ウルトラセブン』マックス号応答せよ、『快獣ブースカ』(タイトル不明)、『マイティジャック』(タイトル不明)、これに『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンエース』の市販の8ミリ、その合間に『フウト』と『√ウルトラセブン』を上映したのだから、当時のオタクにとっては夢のような日であったのだ。

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この年、『√ウルトラセブン』は、和光大・成城大はじめ合計10回の上映がなされる。
映画は、完成しただけでは映画とは言えない。観客の目にふれ、初めて「作品」としての態を成すのだ。多くの観客の目にふれると「商品」としての性格も持つ。そういう意味ではわたしは意識せず最初から「商品」を作っていたことになる。こののち3年で、『√ウルトラセブン』はトータル34回の上映イベントにかかり、約3500人の目にふれたことになる。当時の平均入場料600円として、200万円は売り上げたことになるわけだ。
もちろんアマチュアなので、構造上こんな大金は手にしていない。

そしてこの年は『ウルトラマン』のテレビを映画版に再編集した『実相寺昭雄監督ウルトラマン』が公開されたのだ。わたしは映画公開初日に、いまはなき新宿ミラノ座の前で公開初日にウルトラマンのきぐるみに入るアルバイトをした。子供たちが寄ってくるなか、普通はスペシウム光線のポーズをとるところが、ウルトラ水流アタック光線のポーズをとってみせるなど、いやなウルトラマンとなった。この時のちに実相寺昭雄監督と懇意になるとは、想像もしていない。

『√ウルトラセブン』は、「ぴあフィルムフェスティバル」に応募した。いまは若手の映画監督の登竜門となっているが、当時はまだできて二年でマイナーなもの。普通の恋愛ものなどが主流の応募作のなかで、果たしてどうなるか。当然のようになんの賞ももらえず、また、審査員のコメントがとんちんかんなもので、今後一切この手のものに応募はするまいと思った。よく考えたら当然で、当時はウルトラマンや特撮ものなど、一段も二段も低く見られていたのだ。ATG映画とか、芸術志向なものが上で、我々は限りなくマイノリティだったのだ。わたしはもう完全オリジナルの特撮映画を作るしかない、と思った。それは、自分が本当に心から好きな世界を作るべきだ。もともと『ウルトラマン』の前はアニメの『エイトマン』(原作は『8マン』)が異常に好きだった。そしてこの『エイトマン』を実写にしたイメージの映画を作ろう、という無謀な企画をやろうと思ったのだ。
それが『エスパレイザー』だ。

エスパー以上の超能力を持つ若者たちの驚くべき物語。と、威勢はいいが、大体CGのない時代に「高速で戦う超人」の映像なんて、ハリウッド映画の『スーパーマン』でやっと出来ている時代。冷静に考えれば8ミリ特撮でできるわけない。しかし、まったく若いというのは恐ろしい。やればできるんじゃないかとまったく完成予定を考えず製作を開始してしまったわけだ。
このときわたしは大学三年、就職とか将来のことなどなんにも考えていない。ただただ映画を作るのが好きだった。

エスパレイザー』とは、エスパー以上のエスパーという造語だ。
ウルトラQの『ガラモンの逆襲』に出てきたガラモンを操る装置が「エスパライザー」と言うが、語感がかっこいいので「」を「」に変えて決めた。普通の人間が「エスパレイザースーツ」という強化服を着て、人間の千倍の力を発揮するという設定だ。わたしは桑田次郎・平井和正のSFマンガの大ファンで、『エイトマン』のほかに『エリート』という傑作があるのだが、ここに登場する設定と同じだ。強化服を着たエリートの超能力戦は大興奮し、そのテンションを特撮映像にしたかったわけだ。

そして、着ぐるみでその強化服スーツを製作することになった。
デザインは上松辰巳氏。
惜しくも近年逝去したが、原口智生くんの友人で、彼を通して知り合った。短編の特撮8ミリを製作していて相当な才能の持ち主で、絵も巧いし造形もできる。しかもとんでもないマニアであるとともに『マイティジャック』の大ファンで、のちにその撮影に使用された高速度カメラ「モニター600」を購入してしまうほどの男だ。(このカメラは1990年の『地球防衛少女イコちゃん大江戸大作戦』の特撮シーンで使用された)

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彼の手によりエスパレイザーの若者、善と悪の二体のデザインが出来上がった。このとき『機動戦士ガンダム』が放送中であり、善のデザインはそのノーマルスーツの影響がある。これはのちに現在も作り続けているわたしのライフワーク『電エース』のマスクとなる。電エースの原型が実はガンダムの影響下にあるとはおどろいたろう。おどろかないか。しかし『恐竜大戦争アイゼンボーグ』のヒーロー・「アイゼンボー」のほうが似ているか。

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造形は原口くんが担当。のちに平成ゴジラシリーズ、わたしのギララなどの造形を担当し、円谷プロに入った品田冬樹が手を加えることになるこの頭部が、まさか2020年の現在も現役なのはこの当時予想だにしない。
この年はいまはなき銀座の日本劇場で、夏に東宝の特撮映画を一挙上映という、夢のようなイベントがあった。無論通えるだけ通い、ここで特撮ファンジンを作る流れが新たに生まれ、ゴジラ復活の気運が高まった。我々の世代がなにか生み出そうという熱気があふれた。とにかく日劇の大画面で見るゴジラ映画こそ、至福の時だ。
このイベントによりますます創作意欲が増し、『エスパレイザー』の脚本も推敲を重ね、ラストの見せ場はエスパレイザー同士の夜のビル街での戦いということになる。これがのちにとんでもないことになるのだが。結局脚本やデザイン、造形準備、キャスティングでこの年は終始し、12月23日に本編からクランクインした。
主演はもちろんわたし。『√ウルトラセブン』に次いでだが、前作が陰の役だったので、今回は陽でいこうとした。だが、これが失敗。森田健作の『おれは男だ!』に心酔していたわたしは、彼の芝居の調子をもちこみ、探偵の役を演じたが、どうみても赤面もの。SFドラマに森田健作ほどふさわしくない俳優はいない。東宝の『惑星大戦争』(1977)の防衛軍隊員役もなんか浮いていたし。しかし、当時わたしのキャラクターが森田健作そのものだから仕方ない。
わたしは『エスパレイザー』の製作に夢中だった。しかし、翌年1980年は自分でも驚くような展開が待っていたのである。

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