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#5 1985年『イキナリ若大将』『キリヤマ』を製作監督、フリーライターとしても活躍

この年はCMをやめた反動で、次々と新しいことをやりはじめた。しかし基本は自主製作映画である。わたしはこの「自主製作映画」という言い方が嫌いだった。自主的にやってんだが、なんかださい。わたしはもう、完全な「道楽者」として開き直っていたので、このころからわたしの作る映画は自分で「道楽映画」と呼ぶことにした。よく言われたが、わたしの映画はカラッとしていて、乾きもののようだと。日本人はだいたい、ねちっと濡れ濡れの世界なのに、わたしはそのへんがむしろラテン系だと。なーんも考えていない、空っぽが売りなのであった。

おれは男だ!』のイベントは大成功に終わったが、わたしは青春シリーズの最高傑作は、『飛び出せ!青春』であると思っている。ちょうどこのころ、『復活!!おれは男だ!』イベントの取材として、『飛び出せ!青春』の名バイプレーヤー・片桐こと剛たつひと(当時は剛達人)さんがテレビの取材できて、いろいろお話を伺うことができた。とにかく剛さん演じる「片桐」というキャラクターは、不良なのだがどこかにくめず、同級生の美人・マキ(青木英美)にはからっきし弱い、という役がメチャクチャはまっていて、大人気だったのだ。そのノリで、『おれは男だ!』よりは小規模だったが、恵比寿シネプラザスペース50で『片桐を囲む会』なる、剛さんを呼んで映画上映とトークのイベントも開催した。そして、あらためてケッサクな剛さんのキャラクターに爆笑したのだった。

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この年は、フリーライターとしても活動をはじめた。『GORO』で、夏木陽介さんと山下真司さんというかつての青春シリーズのスター対談を構成、執筆した。夏木さんには23年後『ギララの逆襲』に出てもらうことになるが、この時は夢にも思わない。
そして『RECCA社』という編集プロダクションから、『1970年大百科』というムック本のライターを依頼された。このころからレトロブームで、50年代から70年代の懐古趣味が需要を増しており、泉麻人さんが活躍しはじめたころだ。

この本にはわたしの資料を使い、ウルトラマンや仮面ライダー、テレビドラマについて膨大な分量の原稿を書いた。また、GIジョーリカちゃんの人形同志のベッドシーン(これは再販から削除)などをオリジナルで作ったり、いまでは考えられない自由さで作ったものだ。
ほかにリットーミュージックビデオマガジンAVICの連載でハナ肇さんインタビューで自宅にお邪魔して一緒に『シャボン玉ホリデー』のビデオを見たり、『つくば博』が開催されたので、マスコミの特権で一日中遊んだこともあった。フリーライターというものが、いまよりはるかに景気のいい時代である。ネットがなく雑誌全盛、ページ数万のギャラで、バブル突入前夜で時代は盛り上がっていた。そしてライターのほかに、企業VP(ビデオパッケージ)の演出仕事も何件かやったが、まったく内容は覚えていない。お金のためにやっていたが、やらないにこしたことはない。やっていてまったく面白くないし、なんにも残らないものである。

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3月に全電通ホールにて、『河崎プロフィルムフェスティバル』ということで、完成した『イキナリ若大将』と、それまでの8ミリ作品を一挙上映した。雑誌『宇宙船』にも広告を出したが、怪獣怪獣の主な読者にとって、わたしの存在はとことん浮いていただろう。

そしてコスプレイヤーの元祖・一本木蛮のイメージビデオ『まるまる一本木蛮』を監督した。実はこれがわたしの商業監督デビュー作だ。銀英社のKさんから依頼されたもので、ピチピチの一本木蛮を伊豆に連れてゆき、かなり力を入れて撮った。のちに一本木蛮はわたしの印象をマンガで、「いやあ、青春青春、明るくたのしいなー」などと言っているキャラになっており、「ワタシにはついていけない」などと描いていた。

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そしてこの夏はフジテレビが主催の『SFX博』なるイベントが新宿の駅前広場の特設会場で行われ、これのTVCMや宣伝の仕事をうけやった。このTVCMには、『エスパレイザー』のテーマを使用したり、宣伝用ビデオの回し役にはウルトラ警備隊の衣装を着せたり、やりたい放題。このとき、早稲田大学の『怪獣同盟』なるサークルのやつらがなにかで来ており、そのメンバーでのちにわたしの映画のスタッフとなる近藤豊坪井浩一たちと知り合った。

また、池袋文芸坐ル・ピリエで久々に『イキナリ!チャンピオンまつり』という三日間にわたる上映イベントも主催した。それはわたしの作品はもとより、『トリプルファイター』『柔道一直線』などプロ作品も正式に借りてきて、アマチュアフィルムも『続・海底軍艦』『拳法狂時代』など、娯楽路線のものばかりと混合上映した。これも成功をおさめた。

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円谷プロが主催のイベントがいまはない新宿のコメディシアターであり、この司会もやった。ここに『ウルトラセブン』のウルトラ警備隊隊長のキリヤマこと中山昭二さんがゲストで来ることになり、わたしはC調なことを考えた。いま撮っている『キリヤマ』の前説として、ご本人に登場していただこうと。舞台のトークの内容はむろん『ウルトラセブン』の思い出で、司会はわたしで満田監督も登場した。そこにウルトラ警備隊の服を着せたキリヤマ役の田村も呼んで、にぎやかしで舞台に立たせた。この時ブーツを用意するひまがなく、白いゴム長靴を履かせたので、「こりゃないよな」などと満田監督に突っ込まれたりした。そしてイベント終了後の楽屋で、中山さんに「この映画をおたのしみに」と言わせて撮影してしまった。中身も見せていないのに、ほんとうに命知らずだ。内容は、キリヤマがキ〇ガイ的な活躍をするというものなのだから。しかしこれでまた映画に箔がついた。『エスパレイザー』の石坂浩二、『イキナリ若大将』の森田健作に次ぎ、有名人出演作戦遂行である

この年は円谷プロのイベントの司会仕事がまだあり、『ウルトラセブン』のクラタ隊長、『マイティジャック』の天田副長役の南廣さんとお会いした。成田亨先生との逸話などお聞きして、その人柄に感激したものだ。

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コメディシアターの運営は、テレビ製作プロダクション東阪企画が行っており、その縁で社長の澤田隆治さんと面識ができた。澤田さんは『てなもんや三度笠』や漫才ブームの仕掛け人の、テレビ界の大物である。澤田さんから、イキナリ東阪企画が製作しているフジテレビの日曜夜九時から放送の『花王名人劇場』の構成をやらないか、とお誘いをうけた。それは『チャップリンギャグのすべて』という企画で、チャップリンの映画を編集してみせるだけでなく、坂上二郎さんと井上順さんにコントとしてそのギャグを再現してもらうという、ゴールデンタイムにふさわしい内容だった。

いまはなき赤坂のTBSの伝説のGスタジオにセットを組み、坂上さんと井上さんが本家もかくやのチャップリンギャグを再現する。そんな贅沢な仕事だった。しかしこのころはまだVTR編集が1インチで、編集作業は地獄だった。一週間は作業場に行きっぱなし。本編集の終わりは36時。翌日12時終了という、ありえない時間になることもしばしだった。そんな時間が存在するのか、と思うだろうが、テレビ業界には存在するのだよ。

また、憧れの長嶋茂雄さんの形骸に接したのもこの年だ。『プロ野球BOXシート』という森田健作さん司会の日本テレビの番組の収録で、長嶋さんがゲストと聞き、森田さんのコネでスタジオに来て生のミスターを堪能した。収録が終わり廊下を歩いてくるミスターと目があった。そのわずかなしゅんかん、ミスターは野生のカンでなにかを感じたはずだ。「この青年、いい眼をしている…。」そういう梶原一騎的妄想をさせてしまうオーラが長嶋茂雄にはあった。
しかしわたしは、フリーライターなどはあくまでわたし本来の姿ではない、と思っていた。やはり映画監督だ。監督になるには、とにかく予算をひっぱってきて、自分で一本の作品を作るしかないと腹をくくった。かつての森田芳光監督の言も思い出し、いよいよ勝負に出る時が来たのだ。

1986年 『地球防衛少女イコちゃん』製作

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