Outer Wilds その2 セルフグリーフワーク
『Outer Wilds』のネタバレを含む記事です。
今まさに遊んでいる最中の方、これから遊ぶつもりの方は読まないでいただけると幸いです。
また、幾つかの映画の核心にも触れますが、それについてはその都度お知らせします。
更に、僕の好きな映画を並べ、作品間の共通性やシンパシーを半ば短絡的にリンクさせたような大方自分の為に書いた記事であることもご容赦ください。
そして『Outer Wilds』の野心的なゲームデザインを研究したような内容でもありません。
ちなみに“その1”の記事はこちらになります。
こちらもエンディングに触れた内容ですので、ネタバレをしています。
『Outer Wilds』について考えているうち、一本の映画のことを思い出した。
2011年公開のSF映画『ミッション:8ミニッツ(原題 Source Code)』だ。
ダンカン・ジョーンズ監督、ジェイク・ギレンホール主演。
ループ系SFの秀作で、量子力学といったワードも登場する。
(さてここから映画『ミッション:8ミニッツ』のネタバレに触れていくので、これから見ようという方は一度見てから読むことを推奨します。
「見たよ」あるいは「見ないよ」という方のみ進んでいただけると幸いです。
93分とコンパクトに纏まった、とても面白い映画なのでおすすめです。)
『ミッション:8ミニッツ』は、ループものの体裁をとっていながら、実際は他のループものやタイムトラベルものとは異なる構造だ。
アメリカ空軍パイロットであるスティーブンスは、目を覚ますと見知らぬ電車に乗っていた。
向かいに座る女性は親しげに話しかけてくるが彼女は覚えにない。
しかも自分自身の姿も、全くの別人になっていることに気づく。
財布の中の身分証には「ショーン・フェントレス 教師」と見ず知らずの人物が記載されていた。
スティーブンスが混乱していると、電車は突如爆発し、彼は他の乗客と共に爆発に巻き込まれて死んでしまう。
スティーブンスが再び目を覚ますと、そこは薄暗い操縦席のようなカプセルで、壁掛けのモニターからオペレーターのような女性が自分に話しかける。
「爆破テロの犯人を探して」と。
そして「また8分前に転送します」と伝えられ、彼の意識はワープする。
目覚めたら再び電車の中。
向かいには親しげな女性。
彼のミッションは、爆発までの8分で一体誰がこの電車に爆弾を仕掛けたのかを見つけること。
混乱も解けぬまま、彼は何度も死を繰り返し犯人を捜索する。
ざっくりとした粗筋だけでは至ってシンプルなループものだが、徐々に明かされる事実によってこの映画のユニークな箇所が明確になる。
まず、列車爆破テロは過去の事件であり、そこで死亡したショーン・フェントレスの脳に残った8分間の記憶を基にした仮想現実にリンクしているということ。
つまりスティーブンスの目の前にいる女性も、他の乗客も、皆が既に過去に死んだ人間であるということ。
この爆破テロは連続爆破テロである予告がされており、その犯人捜しの為にこの奇怪なプロジェクトが動いているということ。
スティーブンスは公的には2か月前にアフガンで戦死していて、彼の脳の一部のみが活動を続けていた結果、このプロジェクトに組み込まれたということ。
スティーブンスのいるカプセルと、モニターの向こうとは異なる世界で、このカプセルも彼の想像と記憶が生み出したものであるということ。
スティーブンスに回復の見込みはなく、システムの一環として活動を続けるか、活動停止を行う=死しか道が無いこと。
葛藤の末、映画の終盤に、彼は自身の死を受け入れる。
ただその前に、もう一度だけショーンの記憶の世界に飛び、そこですべきことをしたいと願い出る。
彼がそこですべきこととは、記憶の世界を救った後、最高の形で最期を迎えたい、というもの。
8分経ったらシステムの強制終了をしてほしい、とオペレーターを説得する。
彼は望み通り、最高の最期を迎えることができた。
見た人なら知っている通り、映画はここで終わらない。
最期の瞬間で止まったと思われた世界は再び動き出し、彼はショーンとしてこの並行世界を生きることとなる。
量子力学における多世界解釈を想起させるようなハッピーエンドだ。
しかし元々『ミッション:8ミニッツ』の脚本は、スティーブンスの時間が止まったところでエンディングだったらしい。
そこに監督のダンカン・ジョーンズが上手に多世界解釈的要素を取り入れ、ハッピーエンドとして完成されたそうだ。
話を戻すと『Outer Wilds』は、この『ミッション:8ミニッツ』の改変前の脚本を宇宙のビックバンという巨視的アイデアでゲームに落とし込んだような作品だろう。
爆発までの数分間を繰り返し、この世界の運命を悟り、自分の死を受け入れる。
方や過去の列車、方や宇宙全体だが、最終的に自分が死ぬという運命を変えることができないのであれば、それを受容し最高の形で終わらせようと行動する点がよく似ている。
大切な人を亡くす悲嘆と喪失感から、死を受容し取り込み生きていく心理的変化の一連を「グリーフワーク」と呼ぶが、『ミッション:8ミニッツ』や『Outer Wilds』のシナリオで行われたそれは、さながら「セルフグリーフワーク」といったところだろう。
物語において「セルフグリーフワーク」は、ループを題材にするか、余命、あるいは幽霊を描いた場合などに成立する。
自身の数奇な運命に対する混乱から、可能な限りの行動を取り、納得がいったところで死を受容する。
『Outer Wilds』において、多くの人が自身の死の運命を知るのは、灰の双子星プロジェクトに辿り着いたときだろうか。
僕の場合そこから訳もわからずにプロジェクトを停止し、「眼」からの観測者として終末を見届けたが、思えば他にも色々とトライできた。
例えばそれは、コアを外した状態で第6の場所に向かうだとか、なるべく太陽系から離れてみるだとか、そういった所謂別のエンディングへ繋がる行動、あるいは他の可能性を探して太陽系の探索を続けるか。
しかしいずれは避けられぬ運命を受け入れるだろう。
ここでプレイヤーの活動は、知的好奇心を原動力とする探索から、自らの死をどのように帰結させるかを選択する通過儀礼へと変化する。
この通過儀礼は、ロールプレイを主体としたゲームをプレイする者が普遍的に覚える「このゲームをどう終わらせようか」という感覚にも通じる。
物語の終了は、寂しさを、ときに悲しさを伴う。
それはまるで物語世界の死のようで、死のトリガーを握らされている僕らはそれなりの覚悟を決めて終わらせるのだ。
だが、それが物語世界の死ではないことは前回の記事にも書いた。
物語はその世界とは異なる、どこか遠くの世界にいる誰かの中で生き続ける。
それはビックバンというはじまりから生まれた遠い宇宙の誰かに受け継がれるようでもある。
『岸辺の旅』という映画がある。
黒沢清監督、深津絵里、浅野忠信主演。
夫の喪失から立ち直れない女性が、幽霊となり現れた夫と旅に出る映画だ。
(すみません。ここから更に『岸辺の旅』のストーリーにも触れます。
大変素晴らしい映画なので、もし気になる方がいればここで読むのをストップして是非見てみてください。)
この映画は、黒沢清監督がこれまでにも繰り返し描き続けてきた幽霊というモチーフを使い、遺された人のグリーフワーク、すなわち空洞のような日々から葛藤と生死への深い認知を経て再生に至るまでのプロセスを象徴的かつ丹念に描いた作品だ。
3年前に伴侶が失踪し孤独と喪失に苛まれていた女性、瑞希は、ある日突然幽霊となり現出した優介に誘われ、彼の自死から瑞希の元に帰るまでの道のりで世話になった人々に会いに行く旅に誘われる。
その過程で瑞希は、優介との対話や、出会う人々の変化を経て、死の受容、ひいては喪失の悲嘆と混乱と自責から「失ったあとの人生」を生きる決意へと至る。
ここまで聞くと、幽霊となり現れた優介は瑞希の想像の産物であり、あくまで彼女の自己回復の物語のようでもあるが、黒沢清監督はそうは描いていない。
この映画で描かれるそれは、生者と死者との境目がなく、優介をはじめとした死者も生者となんら変わりなく接するようにして描かれている。
またビジュアルをとっても、そこはまるで此岸と彼岸の狭間の世界であるかのように、ときに生者はおぼろげに、或いは不気味に、ときに死者は自らの実在を実感するかのように活き活きと描かれる。
この映画で死と生は奇妙なまでに融和している。
なので優介にも優介なりに瑞希を連れて旅に出る理由があるのだ。
それはまさに、自分の死を受け入れるための通過儀礼であり、いずれ現世に留まることが適わなくなるのであれば望むように終らせたいという願望であった。
優介が望んだことのひとつに、彼が入水自殺してから瑞希の元へ帰るまでの旅の道中で、お世話になったある村への訪問があった。
そこで彼は、その村で人々に向けて様々なことを教える寺子屋さながらの講習会を開いていた。
以前の講習会では、アインシュタインの相対性理論を紐解く講義をしていたそうだ。
それを再び開き、老若男女さまざまな人が集うプレハブで、優介は彼らと、それを一緒に聴く瑞希に向けて講習をはじめる。
それは宇宙の話だった。
今日は宇宙の話をします。
宇宙は前にも言いましたが、ビックバンという大爆発から始まったのです。
そして今、137億年経っていることがわかっています。
それでですよ、まあ、宇宙にそういう始まりがあったのなら、当然終わりもあるはずですよね。
宇宙は永遠に続くものではなかった。
そしてもう生まれてから137億年も経っている。
それでは、そろそろ終わりが近づいているのでしょうか。
あるときふっと消えて、すべてが無くなってしまうのでしょうか。
ちょっと怖いですよね。
でも実はそうではないのです。
よーく調べてみると、宇宙は今でもどんどん広がっている。
最初の爆発の速度が、緩まるどころか加速していることがわかったのです。
それと、宇宙全体の物質の中でですね、人間が知っている物質の量というのは、たったの4%に過ぎなくて、
そんな広大な宇宙が、全部で510億個も存在しているのです。
ですから、137億年というのは、ほんの一瞬に過ぎないんですよね。
きっと宇宙はまだ始まったばかりなのです。
皆さんは幸運にも、この誕生したばかりの若々しい宇宙に生まれることができました。
これって凄いと思いませんか。
計算によると、28億年後には地球の温度が140度まで上がって人が住めなくなり、40億年後には、銀河系とアンドロメダ銀河が衝突することになるのですが、まあこれは、ほんの些細な出来事なんでしょう。
宇宙はこれで終わるのではない、ここから始まるのです。
我々はそのはじまりに立ち会っているのです。
俺はそう考えるだけですごく感動します。
生まれてきて本当に良かった。
それがこの時代で、本当に幸運でした。
彼が現世に留まれるまでに残された時間はそう長くはなかった。
優介はそのことをわかっているからこそ、彼が現世を離れる為のひとつの決意としてこれを語った。
また瑞希は、彼の見る宇宙という風景を前に、自身の悲哀を客観的思考に持ち込み相対化する。
ほどなくして、瑞希のグリーフワークと、優介の死への通過儀礼は完結する。
『Outer Wilds』をクリアしてから、あれやこれやと考えているうちに、現宇宙の終焉を受け入れ、次の宇宙の誕生へ導くこの物語(ひいてはゲーム全体から構築される体験)は、すなわち僕らの生の不可逆性=常に死へ進んでいるという普遍的な真理を浮かび上がらせる装置のように機能していると考えるに至った。
死に対する無力感は常に抱え続けるものだが、それを自らの生に置き換えることは簡単に忘れてしまう。
人一人に与えられた時間は、宇宙の死と生を真に内在化するにはあまりにも短いが、悲嘆に暮れるにはあまりにも長い。
だからこそ、知的好奇心や使命感を駆動して考え続けることが生きるということにもなる。
僕らは物語を通して、先人の遺した言葉を通して、それを考える機会を与えられている。
僕が生きている間に出会えて本当に良かった。
『Outer Wilds』もまた、そう思わせてくれる作品の一つだ。
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