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Outer Wilds その1 エンディングの話

まず、この記事はビデオゲーム『Outer Wilds』のネタバレを含みます。
これから遊ぶつもりの人、遊んでいる最中の人には読んでいただきたくない内容です。
最初に簡単な紹介をした後に、いきなりエンディングに触れますのでご了承ください。

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簡単な紹介

『Outer Wilds』とは、Annapurna Interactiveより2019年に発売されたアドベンチャーゲームだ。
Annapurna Interactiveは『ザ・マスター』や『20センチュリー・ウーマン』、『her/世界でひとつの彼女』『ゴールデン・リバー』といった僕の大好きな映画を数々世に送り出してきたAnnapurna Picturesの子会社で、2016年に会社が立ち上げられ、『gone home』や『フィンチ家で起きた奇妙なこと』や『Telling Lies』といった主にインディーズの開発会社の作品の販売を行っている。
上記のゲームを遊んだことがある人には、共通するものにピンと来た人もいるかもしれない。
Annapurna Interactiveが関わるゲームには、歩行型ナラティブであったり環境ストーリーテリングの採用といった「ノンリニアなアドベンチャーゲーム」の傾向が強い。
『Outer Wilds』も例に洩れずそのタイプの作品で、なんなら上記のゲーム以上にストイックなノンリニアを貫いている。

『Outer Wilds』は宇宙探索ゲームだ。
太陽系を模したような体系に幾つかの惑星が存在し、これを探索することでこの宇宙を取り巻く謎、かつて存在したが滅びた種族の過去を解き明かしていく。
しかし「次にここに行け」「ここを調べろ」といった指示が一切無く、プレイヤーは常に自身の好奇心や探求心を駆動して探索を続けることとなる。
指示がなくとも『gone home』のように水面下でデザインされた誘導があるかと思いきや、それもプレイヤーが注意深く探らないと見つからないようになっている。
まさに宇宙に放り出されたような気分だ。
しかし根気強く探索を続ければ、次第にバラバラだった謎が繋がり、この宇宙で何が起きているのかを知ることとなる。
極めて挑戦的で、ある意味不親切なゲームデザインではあるが、その分「自分で見つけた」という達成感を得られるのだ。

また『Outer Wilds』がユニークなのは、時間経過によって太陽系全体が刻々と変化し続ける、時計仕掛けのワールドデザインを採用している点だ。
それはまるで『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』やラブデリックの『moon』『UFO 〜A day in the life〜』のように、同じ場所でも訪れる時間が異なれば起きることも変わるシステム。
ある数奇な運命から、プレイヤーは何度も宇宙へと旅立ち、絶えず変化を続ける様々な惑星の探索を繰り返す。
プレイヤーが介入せずとも勝手に様変わりする宇宙は、まるでそれが世界の正しい条理であるとでも言いたげだ。

ここまでが極力ネタバレを排した紹介。
気になった人は是非自分でプレイしてみてくださいね。
PS4、PS5、XboxOne、XboxSeries、PCでプレイ可能で、2021年末にNintendo Switchにて発売されるとのことです。


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エンディングについて

『Outer Wilds』のエンディングまで辿り着き、これまで抱えていた一抹の不安は確信に変わった。
端的に言ってしまえば、このタイプのゲームを過去に遊んだことがある人間にとって、別のこのタイプのゲームを改めてプレイする時間には「自分はデザイナーの期待通りのゲームプレイができているだろうか」のような緊張が伴ってしまうというものだ。

以前、僕は『Her Story』というゲームを遊んだ。
『Her Story』は2015年に発売された推理アドベンチャーゲームだ。
プレイヤーの前には一台の古いデスクトップPCがあり、そこには警察からある女性への事情聴取の様子を映した動画が沢山アーカイブされている。
会話に登場した単語を独自の検索エンジンで検索をかければ、その単語が登場した他の動画を調べることができる。
しかし動画は短く細切れにされており、しかも検索エンジンには収録が古い順に5つしか表示されない。
そこでプレイヤーは、女性に何が起きたのかを推理しつつ、ある種の連想ゲームでもって事の真相に辿り着こうとする、そんなゲームだ。

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このゲームを僕はそれなりにデザイナーの思惑通りに遊べたと思う。
ある人物にまつわる衝撃の事実に辿り着くまでの道程に、ちゃんと驚くことができたし、パズルのピースがはまるような快感があった。
しかしどこかで「もしたまたま幾つかの核心的ワードで検索していたらこの体験はどうなっていただろうか」と考えてしまうこともあった。
もしそんなことをしてしまえば、推理も物語もまとまらぬままにどんでん返しだけを知ってしまうような事態に陥ってしまう。
勿論そう至らなかったのはゲームデザイナーによって計算された連想のラインがあったからだというのは理解しているが、しかし運次第で簡単に手が届いてしまうそれが体験を崩してしまうのではという一抹の不安は拭えなかった。
それから、『Her Story』を遊んだという人の幾つかの評を読んで、案の定序盤で核心的ワードを踏んでしまった人がいることを知った。


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それから僕は『Outer Wilds』を遊んだ。
このゲームも『Her Story』同様に、最初から全て開けている。
広大な宇宙には幾つもの謎めいた事象があり、そのどこから手をつけても良い。
それらを根気強く集めていくことで、謎めいた事象が集合したモザイク画が、ゆっくりとぼんやりと像を結び始める。
ある程度まで像を結び始めると、次に自分が何を知るべきか、どこを探索すべきかが自ずと見えてくる。

しかし僕の頭には雑念が残る。
それは「自分は正しく知識を得ているだろうか、このまま何かの拍子にエンディングを迎えた時、自分はその演出に感動できるか」といったものだ。
自力で探索し知識を蓄える知的好奇心と充実感の傍ら、その一点において無心で遊ぶのは難しい。
何しろ知識を蓄え一つの解を導くゲームは、それを知ってしまった以上もう二度と同じ体験は味わえない。
また多くの人・メディアが本作を絶賛している事実も雑念を助長した。
今思えばどう考えてもそれとこれとは切り離してプレイすべきなのだが、熟考を課すゲームプレイの中でそのような雑念はどうしても過ぎってしまう。
「考えるな」と簡単に言えても、それができないのが人の思考だ。

僕は巨人の大海の深海に沈む探査機追跡モジュールに辿り着き、闇のイバラの中に不時着した母船に辿り着き、灰の双子星プロジェクトに辿り着いた。
ここから暫く奮闘し、とうとうエンディングを迎えた訳だが、ここまでで僕は一度も量子の月に降りたっていなかった。
言ってしまえば、母船のインターフェースを見て「探査機追跡モジュールの信号」と「ワープコア」が必要であると認識していたため、それを用意してセッティングしたに過ぎず、起動すると何が起こるか、何のためにそれを行うのかまで理解が充分に及ばぬまま、訳も分からず「眼」の南極へと歩み、一連の流れでもって終局へと至ったのだ。
そのため、エンディングで起きたことについても理解半ばとなり、その『2001年宇宙の旅』や『インターステラー』を彷彿とさせる圧倒的な演出に興奮し、宇宙が終焉を迎えることへのどこか爽快な諦念を抱く一方で、相変わらず「このままエンディングを迎えて良かったのだろうか」といった雑念が残ってしまった。
ひょっとして残念なことをしたのではないか、と咄嗟に思ってしまった。
僕はゲームデザイナーの期待通りのゲームプレイができなかった、と思った。



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スタッフロールが終わり、僕は量子の月に辿り着くべく以前のセーブデータをロードし、再び宇宙へ飛び立った。
そして巨人の大海にある量子知識の塔にもう一度トライし、リトルスカウトで撮影をすれば量子物質は視覚され実体化することを再認識し、無事に量子の月に辿り着いた。
そこで第6の場所で生死の狭間をゆらぐNomaiと対話をした。

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エンディングを見てから量子の月のNomai(Solanum)との対話までの一連で、僕はこれまで感じていた自身のゲームプレイに対する雑念と緊張がもう無いことに気づいた。
当たり前な話だが、エンディングを知ったことでこれまで付き纏っていた不安と緊張は消え去ったのだ。
Solanumとの対話は、自分でも驚くほどに、これまでにない解像度で知識として吸収された。
もしこれをエンディング前に見れていたなら、と思わなくもないが、それ以上に、過去最もクリアに宇宙の仕組みを伝える、この宇宙アーカイブとも言うべき体系の底力に驚いた。

思えばこれまでも素晴らしい体験をしてきたではないか。
高エネルギー研究所に辿り着いたとき、脆い空洞で空中都市への道を見つけたとき、ブラックホールとホワイトホールの仕組みを理解したとき、闇のイバラのアンコウの回避方法を覚えたとき、巨人の大海で深海に潜れたとき、灰の双子星プロジェクトに辿り着いたとき、そのどれもが自らの知識と気づきによって達成できた二度と訪れない知的体験であり、その度に確かに感動と興奮を覚えていたのだ。
エンディングを迎えるまでは不安のヴェールに包まれていたせいでどこか不明瞭だったが、今はもうない。

杞憂だったのだ。
エンディングを迎えることが自分にとってのゲームプレイのゴールであるという思い込みが生んだ強迫観念だった。
思えば、理解及ばぬまま劇場を後にした映画が、記憶の反芻の中で段々と好きになることだって幾らでもあったし、散々聴いた曲をふと改めて聴いて、違った側面に気づくことだってあった。
作品とそれを享受する側との関係性は常に流動的で、スタートからゴールまでのリニアな道程で1から10を吸収し、1から10の感想を抱く必要などなかった。

僕にとってのOuter Wildsの本番はここからだ。
先ほど、二度目のエンディングを迎えた。
焚火の前にはOuter Wilds Venturesのメンバーに加え、量子の月で独りぼっちだったSolanumがいた。
これから先、僕はこのゲームが好きになる一方だと思う。

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