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巨大観音のそばには住みたくない

仙台、高崎、芦別、加賀、久留米に富津、釜石、牛久(これは大仏)・・・日本列島はまさに巨大仏のオンパレードだ。戦没者の慰霊や死者の鎮魂、信仰の拠り所、宗教施設、バブルも背景に一儲けなど建立の背景はさまざまあれど、微動だにせず(当たり前だ)じっと屹立するその姿はやはり異様という他ない。「ラスボス感」というインプレッションなどはわからなくもないが、数十メートルもある、人格(とは言わないか)を持ったかのようなリアルな「人型の」像がどこからでも視界に入って来るというのは、どう考えてもかなり「暴力的」に思える。それが住宅街の中だったらなおさらだ。私だったら、その像が見えるところには絶対に住みたくない。転勤で行けと言われたら全力で抵抗しただろう。考えてみてほしい、あの涼し気な(ばちあたりな言い方をすれば「何を考えているかわからない」)お顔と毎日相対しなければならないのだ。毎晩悪夢でうなされそうだ。観音様の「お膝元」に住んでいる方々はどう思っているのだろうか。仙台では建築時大きな反対運動があったとも聞くが、慣れてしまえばどうってことないのだろうか。ご尊顔を仰げて幸せなのか。そこのところが理解に苦しむ。

そもそも個人的な信仰心だったらあそこまで大きなものはいらないのだ。宗教施設はその「偉容」を誇りたいのだからまだわかるものの、ここは古今東西神も仏もなんでもござれの日本だ(それが日本を俯瞰したときに独特の風土を形成していると思っている)。巨大観音(仏)のほとんどは戦後の高度成長期以降に作られている。その土地や習俗に根ざしたものでも何でもない。「純粋に」信仰されている方、巨大観音像ファンの方々には申し訳ないが、個人として一宗教法人が周囲の景観空気を無視して睥睨威圧するような建造物を作る傲慢さ・無神経さはやはりいただけない、と思う(昨今解体で話題になった淡路島の観音像などは宗教法人の認可もないものらしいが)。コルコバードの丘のキリスト像などとは一線を画して考えたいところだ。

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