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父の記銘力障害

50歳を目前にして父親はくも膜下出血で倒れ、5時間以上に及ぶ大手術で何とか一命はとりとめた。4月の初めで、一浪ののち何とかひとつだけ受かった大学の入学式に私は病院から直行した。入学式どころではないという私に母親は強く出席するように言ったのだ。術後、意識が戻ってからも一定期間頭蓋骨は外されたままだったが、脳のむくみが引くのを待つために必要な措置だったらしい。包帯やガーゼでくるまれた父親の頭部の半分に頭蓋骨がないというのは曰く言い難い不思議な感覚で、もちろん直接包帯を直したりなどという行為はするわけがないのだが、水を飲ませる時などいらぬ緊張をしてしまうのだった。そう言えばまだ父親の意識が明瞭になる前、筆談が日本語ではなく英語だったのには家族や親戚一同降参するほかなかった。父親は高校日本史の教師だったが「本当は英語が良かった」と言っていた事がある。まだ意識混濁中とはいえ、ここで日本語より先に英語が出てくるとはどういうことか。

回復は順調かに見えた。手足に若干の麻痺は残ったものの、日常生活を妨げるというほどではない。日常会話もできそうだ。中伊豆のリハビリテーションセンターに入所し職場復帰に向けて訓練をすることになり、母親も身の回りの世話のため同行した。ちょうど同じ脳卒中でリハビリをしていた女子高生(中学生だったか?)が入所していて、模擬授業をやってみてはという話になった。お互いのリハビリにうってつけではないかということだ。その様子は一度見学させてもらったことがある。1対1ではあるが、なかなかスムーズに進行しているようにはた目には見えたが、訝しまれている事があった。どうも前回の授業内容を覚えていないのではないか?ということだ。模擬授業を繰り返すうち先生方の懸念は確信に変わった。父親は「記銘力障害」という後遺症が残っていたのだ。

記銘力障害とは、新しく知覚し体験した情報を記憶の中に取り入れ留めることができない障害のこと。脳血管障害や脳炎などの病気、統合失調症や心因性の障害などが原因になる。父親の場合はもちろんくも膜下出血によるものだ。以前より会話に加わる事が少なくなったとはいえ、会話の内容も理解し、妥当な相槌も打っていたのでまさかそんな障害が残っているとは誰も思わない。これでは教壇に再度立つことはできないと、復帰への希望は断念せざるを得なくなった。

直近の記憶が定着しにくい、ということでまったく「ない」わけではないようだ。試しに昨日の事を持ち出してみると大きく頷くこともある。失語症の傾向も多少は出ていたので率先して事の次第を話すようなことはなかったが、その頷きがごまかしでないことは顔つきでわかるのだ。「なるほど」と思ったのは、新しい記憶でも自分の身の安全に関わるような事はちゃんと身につくのだ。戸締り、ガスを止めるといった行為はむしろ私たちより確実に遂行した。カレーライスも作れる。一度、一人で電車に乗ることができるかを試すために銀座まで映画を観に行くことを提案した事がある。映画世代だった父親は、私たちの不安をよそに、何の問題も起こさず映画を一本観て帰ってきた。

性格も穏やかで、まさか記憶障害のある人とは一度や二度会った第三者にはわからない。母親が困り苦労したのは、むしろその温厚さに隠れた部分だったと思う。それは病前父親が持っていた決断力・判断力や行動力(母親はそれを時に「自信家」だからと揶揄していた)、思考力がすべて欠落してしまったことだ。今自分が何をすればいいかのジャッジができない、例えば母親が痛みで苦しんでいても傍観しかできず、その傍らで新聞を見ていたりする(映画を観てこられたのは「映画を観て来れば」という明確な「指示」があったからか)。長年連れ添ってきたとはいえ、母親のやるせなさをどれだけわかってあげられたかは未だもって自信がない。母親が先に他界した時、父親は大粒の涙を流した。

その父親が他界してちょうど暦がひとまわりした。思えば人生の4割弱を「記銘力障害」として生きた事になる。酒を飲みながら世の中の大事小事を「あーでもない」「こーでもない」と話す機会が与えられなかったことはつくづく残念なのだ。


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