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2018年を振り返って①区切りのないフレームで戦略は立つのか?

2018年は、皆さまにはどんな年だったでしょうか?
私はといえば、今年は父が亡くなり、会社を辞め、noteという知らない他者向けのアカウントを始めました。激動の年だったかどうかはよくわかりませんが、惰性で何となく日々が過ぎていき、年頭とかに立てるその年の三大目標とかが、どれも達成されないまま翌年へそのままスライドされるような、それまでのごくフツーの何年かに比べれば、随分な変化があった年でした。
前記事で、生計費を稼ぐ活動に没頭しなければならないので、今年度のnoteの記事は前記事で最後と書きましたが、若干余裕ができたので、変動の大きかった2018年を振り返ってみることにしました。

今年は私事になってしまいますが、父が亡くなってしまいました。
あと10年は生きるんだ、病院から奪還するんだ、という前提で見舞い看病含めたすべての活動をしてたため、それに対して結構急なかたちでピリオドが打たれたのは、やはり相当の空虚と悲しみをもたらしました。しかし、それについて長々語ってしまうのはここでは止め、べつの機会に譲り、そこから考えたことのひとつ(あくまでひとつです)をこの文章のテーマとしたいと思います。

よく家族とか近親者が亡くなると、人生について再考させられるといいますが、わたしもその例外ではありませんでした。病院で管栄養で寝たきりになってる人たちを見て、ひとは、事故や事件で即死、もしくはぽっくり逝ってしまうんでなければ、最後はこうなってしまうのかと考えると、人生なにをやってもムダなように思え、虚しくなることもありました。
二十代とか若い人であれば、それは相当先のことかもしれません。
しかし人生は決して無限ではないのです。

でも、そう考えたところで、人は時間の使い方にそんなに自覚的になれるだろうか、という疑問も生じます。人間、余裕ができれば好きなことに時間を使いたいものです。絵だとか、楽器だとか、カメラとかそういったことです。また、今日のような状況下では長期的な目標がそもそも立つのかという疑問もあります。テクノロジーやフレームの変化は短期間で激変することもあります。そうすると長期的な目標は横槍がはいったり、細かく修正を余儀なくされることも多いでしょう。また人間はひとつのことに飽きやすいというのもあります。実際、風向きに逆らわず、その時その時の流れに従うほうが上手くいく人も多いようです。こういった状況を顧みて、私は、一旦は、目先の短期の目標に集中して、それを積み上げたり、そのなかから使えそうなマテリアルを発展させていくしかないんじゃないかとも考えました。
noteもそういったやりかたで今のところはやってきました。
短期集中でそれを積み上げるしかないと考えたのです。
フレーム的な枠組みが瓦解するのを見かけることが増えたような気がすることも、そういった考えを後押ししたようです。

しかし、べつの疑問も生じます。
場当たり的な短期集中を続けてけていけば、それはいつか結果に結実するのか、ということです。


それで、人生の視界が切り開けたという人も無論いっぱいいるでしょう。

わたしが現在置かれてる状況は、仕事についていえば会社を辞めて派遣バイトになってしまったため、一日一日の超短期勝負です。またnoteの投稿も、その一投稿一投稿も、今のところは短期勝負のニュアンスが強いです。

そんな生活をしているうちにあることに思い至りました。
というより、ある疑問が生じました。
それは、フレームのないところに戦略は立つのか?ということです。
わたしが現在やってる派遣バイトは、戦略的に仕事に処すのは難しいのです。せいぜい与えられた作業をよりうまくやるくらいの可能性しかありません。また逆の言い方をすれば、仕事に戦略的に処す必要がほとんどないのが派遣みたいな立場の利点です。しかしその代償もあります。それは成長の余地がほとんどないということです。
つまり三年を考えられないような空間では人生戦略は立ちにくいということです。また三年以上でも事実上エンドレスみたいな期限や区切りのない空間でも人生戦略は立ちにくいかもしれません。

これを読んでるあなたはどんなフレームがありますか?

あまりに長いタームのフレームも戦略が立ちにくいようです。
たとえば会社生活ですと、ずっとそこに勤めることを考えますと40年前後、夫婦生活ですと、別れないことを前提にして、やはり相当長いですよね?
そうすると基本長いフレームはもっと小分けにしないと戦略が立ちません。
たとえば、よく自己啓発書で見かけるパターンかもしれませんが、二十代はこれこれのことをやって、三十代はこれこれを目標にしてということです。
40年をひと区切りと考えたんでは、それは人間の意識にとっては長すぎてフレームとして機能しないでしょう。
夫婦生活なら、三十代の十年と四十代の十年では様相がちがうものなのかもしれません。
そんな予定通りに人生が進むか?
いや確かに実際は進まないでしょう。
そんな人生が面白ぇか?
よくわかりません。
ただ、もし会社みたいなフレームに戦略や目標ゼロで臨んでしまいますと、極端な話、23歳のときと39歳のときでほとんど変わってない社員というのもでてくるかもしれません(今日のような状況ではリストラされてしまう、いやそもそも入社できないかもしれません)
ガツガツ生きることをお勧めするのか?
いや、そういうわけじゃないですけど、フレームがなかったり、あるけど事実上エンドレスなフレームであれば、その空間ではある人のフェイズや段階というのはいくら時間がたっても押しあがらないのではないかということです。
このnoteというフレームも使い方次第でどうにでもなります。
このアカウントは純粋な趣味のアカウントだから…
このアカウントは、その時その時思ったことを徒然なるままに書いてるだけだから…というんであれば、それでもいいのかもしれません。
進歩や成長を前提にしてはいない純粋な楽しみとしての趣味とかだったらそれでもいいのかもしれません。
しかし、フレームとそれに基づく戦略ゼロで、個人が無意味に同じフェイズに長くとどまってしまうこともこわいことじゃないでしょうか?
もっとも流れに乗って、概ね満足いく人生がおくれればそれもよいのかもしれませんし、人の人生の開け方には様々なパターンがあるのかもしれません。

最後に、じゃあフレームを考えることによる人生戦略とは具体的に如何様なものか?
たとえば楽器をやってる人なら、自宅練習は三年でけりをつけて、そこまできたら、ライブハウスとか、とにかく人前で演ってみる、その次は…という具合。
恋愛であれば、4年経ってつき合えそうになければ、その人は恋愛や結婚の対象としてよりお友達や知人のひとりと割り切る。
そんな合理的に人生を考えることはできない、というひともいるでしょう。
目的追及に偏ると、余裕を失って他を顧みなくなる…それも確かにそうでしょう。
サザンオールスターズやローリングストーンズみたいに目先の課題をこなすことを積み重ねて、いつの間にかここまできたみたいなのが、もしかすると理想なのかもしれません。でも彼らは、ステージに立つというフェイズが実現したのは相当昔のはなしです。
適当なスパンのフレームなしに人生の戦略は立つのか?
適当なスパンの戦略なしに、個人の置かれてるフェイズは押しあがるのか?
戦略をひとつも持たずに流れに乗るだけで人生が開けたのは、僕たちよりも何倍も器用で才能のある特殊な人じゃないのか?
若い人は人生がまだ60年以上あるかもしれないので、もっと自由にのびのびかつのんびりやりたいでしょう。
しかし35歳あたりをすぎて(わたしは50歳まであと2年ありません)これといった結果から見て見放されてると、仕事にせよ恋愛にせよ焦ってくるひとが多いようです。
そういったときに、適当なフレームなしに戦略は立つのか?
戦略なしに達成できる目標はどのくらいあるのかをたまに自問してみるのはよいかもしれません。
父が亡くなって人生の残り時間を意識する中で、こんなことを考えました。

前記事で今年の記事は終わりにしようと思ったのですが、ちょっと余裕ができたので、今年を振り返るをテーマに、父が亡くなって考えたことのひとつ(あくまでそのひとつです)を書いてみました。
余裕がさらにできれば、会社を辞めたこととnoteを始めたという残りのふたつの変化についても何か書きたいのですが、暮れも押し迫っておりできるかどうかわかりません。

御一読ありがとうございました。

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