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商品を選べばよい時代は選択が簡単だった

商品経済の時代はお店の中にあるものから自分の好みにあったものを選べばよかった

80年代くらいまでの商品経済の時代ははなしが早かった

行動原理は比較的単純だった

欲しい物を買うために稼げはよく

欲しい物は市場にオーガナイズされていた

もちろんどれを買うかで悩むことや迷うことはあっても概ね幸福な悩みだった。

市場にオーガナイズされてるものに皆が夢中になったのが、いわゆるバブル期だった

いまアラフィフの自分は身を持ってこの時代を体験している

無論この時代は、どちらかといえば悪く言われてるけど

今ほど混迷が大きくもなかったように思う

時計の針は無論逆には回らないと思う

今は選択の原理がより複雑になってると思う

この複雑さのおかげで、市場経済に背を向けたに等しい恰好になっている個人も増加しそうだ

市場経済が崩壊すれば、究極、人は働く意味を見失い、少なくとも特定の職場に、働く場としての特定のコミュニティーにかかわる動機も減少していく

市場経済の本来の意味は、より多くの人が能動的にかかわるところにあると思う

バブル期はより多くの人が市場に、また金を稼ぐ労働に参加した

ごく一部の人しか勝てない市場では、そもそも経済市場として機能してると言い難い

個人がいかに市場で勝つかは、自営業を始めとする人には重要命題だが、一般の人には市場がそもそも壊れてれば社会参加の動機も低下するハズなのだ

つまり市場の不成立かそれに等しい状況は、社会参加を控えるという個人の増加につながることもあるように思われる

しかし困窮の度合いがスマホを持てないほどではない市民は取りあえずスマホコミュニティーみたいなところには関与する

それがアカウントという場だと思う

アカウントには市場でお金をとれる商品としては成立しにくい様々な情報が提供される

「お昼ごはんナウ」という情報の提供が、ある人には思いがけない喝采を浴びることもあれば、思いっきりシカトされ空を切ってしまうこともある

この個人差がまた、人々をさらなる混乱に陥れる

しかし多少の混乱はあっても、プラスがゼロのわけではないし

スマホ社会と手を切るほど勇気も困窮も欠けてるわたしたちは、とりあえずスマホを触る

そして、壊れた商品市場と労働市場にはほどほどしか関わらないことで自己防衛し、残りの時間は、一獲千金に近いことを夢見たりしながら、今日もスマホをいじくっている

市場とはそもそも何だろうと考えたとき、そこは文字通りひとつの場なのだ

そこは売れそうなモノを持ってる人がモノを持ち寄り、何か目ぼしいものはないかと思ってる人が買いにくる「場」なのである。

今日スマホを持たない人はかなり減ってるだろうが、スマホ的な、つまりアカウント的な場が場として成立するかは個人差が大きい

学校には行かず、You Tubeで学習した子供が目覚ましい成果を上げるといった事例を耳にした

でもそうすると、学校という従来的な場は場としてより機能しにくくなり、一方You Tubeで子供が学校に行かずに学習というのは、まだ市民権のようなものを得るには至っていない

そういう個人学習のシステムに子供のうちから専心してしまうことの弊害はまだそれほど明らかになってない

こうして従来的な場は、だんだん壊れ始めている

本屋に学校に職場に…

しかしアカウント的な場が、社会的な、つまり市場と本来同意義になるほどの場として成立してるとは言い難い

この未成熟な場でむしろやり甲斐を感じている個人もいれば、日々様々なところでついてしまう傷のようなものに心を閉ざし気味の人もいれば、事実上参加していない人もいる

つまり、それはバブル期における商品市場ほど沢山の人が参加できる場というわけでも全然ないのだ

バブル期の商品市場は色々悪く言われてるけど、人々は、ウインドーショッピングや本や雑誌を立ち読みで終わらすこともあったにせよ、今よりは「金」を出すという行為でそこに参加することが多かった

商品市場にとってかわって、もう一つの場として成立したスマホコミュニティーで私たちは、せいぜい「いいね」を押すという行為、いや、これはわたしも記憶にあるのだが「いいね」すら押しはしないという関わりしか持たない
もちろん「いいね」さえ押せば情報提供者が飛び上がって喜ぶ保証もどこにもないし
わたしたちは、情報提供者との関係によっては「いいね」すら押せないのだ

商品に対してお金を出すという行為は、よく知ってるいきつけの床屋に金を払うとかを除けば、本来匿名がその特徴なのだ
ある種の匿名性が保証されない限り、経済行為は鈍るのだ
エロ雑誌を買うとき匿名でなく、こちらの個人としての履歴や購入情報がどこかに蓄積されるのであれば、そのような商品の流通は減速してしまう

匿名性が保証されずに売れるものとは、それを買っても双方の自我がまったく脅かされないものに限られる

絵をやってる友だちの絵を義理買いするとかはたまにあるが、その絵を本当に欲しいと思ってるその人のライバルはそれを買ってしまうと自我が傷つくので、その絵を買えないというパラドックスが生じる

EC的な商売展開はほとんどこの、購入という行為の匿名性をまったく保証しない今日的仕組みの欠陥を誰も問題にしない

そこでわたしたちは、「いいね」を押したり押さなかったり程度の関わりでしかその場に参加できない

「いいね」を押すのをすら控えてしまうのも多くは、自分の匿名性が保証されないからだ

「いいね」が匿名になったら困る

それがわたしが贈ったのだというのが相手に伝わらなければ何の意味もない!

それも確かに分かる

しかし匿名性が保証されない故に「いいね」を押せなかったことが誰でも1回はあるんじゃないか

そうすると、お金を払うのも「いいね」を押すのも、その行為に誰の自我も傷つかないという条件を必要とする場合すらある

そうすると、マブダチ的な信頼関係にある間柄であるとか、提供された情報が誰の自我も脅かさない無難なもの、つまり毒にも薬にもならない程度のものにしか、「金」も「いいね」も支出されなくなっていくのではないか

市場経済の崩壊を埋めるかのように広がり始めたスマホコミュニティーは様々な問題を内包しつつ、しばらく過渡的状況が続きそうだ

この過渡が引き起こす混乱に人は傷つき出方が決まらない

バブル期みたいに、欲しい物がお店にオーガナイズされていて、お金を持っていけばよかったころよりすべてがより複雑になっているからだ

バブル期の商品市場に代わって現れたスマホコミュニティーはこれから成熟へ向かうのか、それとも混乱のみが拡大しより混沌としていくのか

この複雑な「場」で個人が勝てばいいのさと考えてるなら、それはより純粋にパワーゲームになってしまい

下手をすると、織田、豊臣、明智、徳川、武田などが睨みを効かしていた戦国時代に近い混乱が生じやしないか

それは心配のしすぎだろうか

スマホコミュニティーが匿名性より、個人としての信頼等に基盤を置くならそれはそれで素晴らしい気もするが、個人としての間柄で真の信頼を築ける数は個人差はあるだろうが、たかがしれてる気もする

その場合は、相手にする人数が少ないのだから、提供するサービスや商品の単価がある程度高いことが前提になるだろう

いずれにせよ、バブル期の商品市場より複雑なスマホコミュニティーでわたしたちはこれからどう生きていくのだろう

昔はもっと簡単だったのだ

それは「場」が成立していたからである

(あとがき)
昔は(っていう言い方はジジくさいんであまりしたくないですけど)昔は、商品市場にしても労働市場にしても自存的に「場」が存在したんですけど、今って「場」が自存的に存在するわけじゃないから、個人が「場」を自分でつくらなければいけない時代だと思うんです
この困難さにむしろやり甲斐を感じる人もいると思いますけど、情報提供者なり作品提供者が受け手に対して、どこまでもその自我を傷つけないように振る舞うのは限度がありますよね
そういった意味で、昔的な意味での「場」が壊れてしまった今の状況のほうがより混沌として大変だとは思います
アカウントって、受け手と情報や作品の送り手の両方をほとんど皆が兼ねてるでしょう。

バブル期のころ、僕は一方的な受け手にすぎなかったんで、今日アカウントで生じているような混乱には無縁でした。
「風」の時代に入ったんだから、交流を広げて波に乗りさえすればいいんだよみたいなことをいう人も見かけますが、波に乗ってるに過ぎない人が長く蹴っつまずかない時代が来るとは個人的には思えません。
タモリが「笑っていいとも」が終わるとき、どこかで「僕はフジテレビに生かされていて守られていた、そういう30年だった」みたいなことを言ってたのを読んだんですが、これからはその種の波に乗るだけみたいな生き方はむしろ難しくなるような気さえします
状況は多分より混沌としてくるとしか思えない気もします。

「昔のほうが色々簡単だったかな」という今を生きる人にはあまり役立たないただジジくさいだけの感慨に、それはこれこれこういう理由だから、というような理屈的分析をくっつけてみました。

といいつつ、これは単なるグチではありません。
今の状況を昔との比較で自分なりに把握しようとする試みです。
それはもちろん、これからの時代をどう生きていくかみたいなはなしと連動しているわけです。

長い文をここまで御一読ありがとうございました。


(製作データー)
書き始め:2020年12月24日15:02分

あ~っ、また書いてすぐ出しちゃった。

1週間寝かすって言ったのに… まぁいいか。

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