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つれづれに……雑記(2024.06.30)
どうしようもない人が増える。
そんな予感がある。
大谷選手以外は、これといった成功話を聞かなくなってしまった印象がある。
しかし、もう刑務所を生涯でてこれないか、相当長く出てこれない境遇に転落する人のはなしは、これで終わりがもうない。
人には、特にネット社会になってからは、自分の苦痛が他者に起因してることを立証するのが難しくなった。
いや、僕が、ネット上の誰かを訴えたいとかいうわけでは特にないのだが
他者が関係している自分の苦痛に関して、その立証がより難しくなっているということだ。
昨年あった、元自衛官の性被害ような、因果のハッキリしているものであれば
場合によっては、声をあげることによって解決する。
いま、メディアは盛んに「声をあげること」による解決を一般の人に煽ってると思うが
「声をあげること」などはできない、あるいは、上げようものなら、狂人扱いされかねない状況に置かれている人も多分、増えてる。
なのに、メディアは、かなり無責任に「声をあげろ」とそれを煽ってる。
すると、そういう人たちは、ただでさえ被害者で苦痛なのに
自分の苦痛がおさまらないのは、勇気を出して声をあげないからだ!
と自分を責めさいなむ
つまり、「声をあげる」ことの推奨は
「声」など上げようがない構図下の人を二重に苦しめてるということだ。
「声」をあげないひと(たち)は、ただでさえ、より孤立しているのに
「声をあげない」ことを責め立てられることによって、二重に孤立している。
これはかなり救いがたいことだ。
立法行政や医療機関が救える人の苦痛は、しばし、因果がハッキリしているものに限られる
まわりが対処できるのは、因果の可視化に成功したものだけなのだ
より大きな枠組みで見れば、ある個人が囲ってる苦痛は、半分は、その人個人のカルマのようなもので
ある種の人が主張するように、マインドブロックを外したりなどということでは、どうにもならないことが多いと思う。
マインドブロックとかいうのを外すと、それまで希死念慮に包囲されてた人が、急にヨーロッパ旅行へ行きたくなるとか、現世謳歌のパーソナリティーに変化することなどまずないと思う
働きたくないという人が増えている。
これは、たとえば、一般の就労を20年とか問題なく継続している人にはよくわからないはなしかもしれない
誰でも、1カ月に2.3日は、会社になど行きたくない日はあるだろうけど
就労する気が起きないほどではないというんであれば、そういう人の悩みは結局分からないだろう。
働きたくないというのは、学校に行きたくないというのに似ている
生活保護の容認を拡大すれば、働きたくない人が増えると考える人が多いようだけど
職場に行くことで、人生が良循環するファクターがひとつでもあれば
生活保護がどうだろうと、人は職場に行くものだ。
良循環するファクターや見通しがひとつもなければ、まわりがどんなに白い目で見ようと、人は学校や職場に行けぬものだ。
経済社会は、因果の追及によって発展してきた部分はある
たとえば、日本史の試験で、近・現代史が弱いという弱点を発見し、そこを強化することによって目標を達成したりすることで、生活をよくしてきた
ここがウィークポイントだから、ここを改めよう、あるいは強化しよう式で乗り切ってきた。
それが崩れたのは、それがより顕著になったのは2000年以降だろう。
そのやり方は、限界を露呈することが増えた。
「声をあげる」というのは、その何割かは、自分の持ってるトランプのジョーカーを誰かに渡すという程度の意味しかないものもある。
それが、可能なのは、さっきも言った、元自衛官の性被害ではないが
苦痛の可視化に成功した事例だけだ
いや、可視化による証拠の捕獲が大事だとかいってるわけでは無論ない
学校に行きたくない
働きたくないという正直なところを
しかし、その因果の可視化に失敗した人たちの末路が、刑務所だったり自殺だったりすれば、それもやりきれないはなしだ……と
因果の可視化こそが大事だとは、言わない
因果の可視化が、裁判の開始にしかならないのであれば
それも泥沼だ。
そう簡単には抜け出せない泥沼
見えてきたのは、そんな光景だ
(あとがき)
今日も、タイトルを決めてかっちり書くのはやめて
なんとなく、朝思ったことを書いてみました。
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