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「やる気がない」とはどういうことか

こんにちは、木月まことです。

今日は、「やる気」あるいは「やる気がない」ということについて考えてみたいと思います(ただ、ここでは出社拒否とかうつ病とか重い病的状態での「やる気がない」ではなく、もっと日常でよくある漠然とした「やる気がない」についてです)

ほとんどの人は一度くらいは人生で「その気」になるものです。

しかし、この「その気」を見事成就させる人の数はひょっとするとかなり少ないと思われます。

小さいことなら、成就するという人は多いと思います。

たとえば、レシピ集によって料理を完成させるとかです。

思い立ってからせいぜい3日以内に完結するような、それも一人で完結するようなことは多くの人が成就した経験があると思います。

しかし、一ヶ月以上はどうしてもかかるようなこと、たとえば英語をマスターするとか、作家になるとか、ブログで儲けるとかいったことになりますと、非常に多くの人が、結局、自分はやる気がないのではないか?というやる気(感)の不足という自己責めにあうわけです。

では、最初の問いに戻りましょう。

「やる気がない」とはどういうことなのでしょう。

それは、いまわたしが考えたところによれば、それは、(その時点では)そのことに(それ以上)力を割けない、あるいは力を割く気になれないということです。

こういったことはなぜ起こるのでしょう?

ひとつには、これは大学生とかモラトリアムな身分の人に多いのですが、「やる気」なんかを出したりしなくても、そこそこの満足が実現しているからというのもあるでしょう。

もちろん大学生とかの場合はこののんきな自由(そうでない大学生もいると思いますが)のおかげで、好きな本を読めたりとか、後の人生を豊かにする何かに時間をつかえる場合もあるでしょう。

しかし、若い人の多くは恵まれすぎているために「やる気」を出す必要がすくないんです。

つぎに考えられることは、成就したい願望に対して手段が思いつかないということです。必死に手段を考えるのがもちろん「やる気」なのでしょうが、経験不足が災いして自分の頭の中から手段を生み出せないんです。これは若い人だと恋愛的なシチュエーションでありがちです。

こうすると、人は、あの「酸っぱい葡萄の論理」を持ち出して、その目標を諦めます。まぁ、これは2人に1人はそうなんで、それ自体を責めるのは酷かもしれません。

つぎは、その「その気」なったことが(今現在の)日常とリンクしにくいことであるということが考えられます。
たとえば、英語なんかまったく必要のない環境下で英語をペラペラになりたいとかですね。これはもちろん、そういう環境下で独学的にペラペラになられた方も実際にはそこそこいらっしゃるのですが、それを必要としない環境下であることを成し遂げるのはかなり意志力の強い人です。
また、たとえば40歳過ぎた人が読書レビューのブログを始めたいと思ってたとしましょう。しかし本業が忙しく、子息のひとりが引きこもりになって、親を介護する必要もでてきたとしましょう。
そうすると、この人の日常は本業の仕事、問題を抱えてる子息、親の介護で手一杯で、読書レビューのブログをやりたいという願望はその人の日常にリンクする余地がないでしょう
逆に言えば、日常と全くリンクしない「やる気」はどこかで萎んでいくことが多いため、願望と日常をいまよりはリンクさせるなんらかの工夫が必要でしょう。


その次に考えられることは、目標をまだ始めたばかりの時点、あるいは始めてすらいない時点でマニュフェスト(公宣言)してしまうことです。
たとえば、ギターでCコードやAコードがどこかも分からない段階であっちこちに「オレは将来世界的なミュージシャンになるんだ。そのためにギターを始めた」とか、「将来、弁護士になるからまず司法試験に受かります」などとあちこち20人くらいに吹聴してまわることです。
えっ?目標を達成するためにはマニュフェストして追い込むくらいがいいんじゃないの?
確かに、背水の陣を引いた方がやる気が出る場合もあります。
でも、それはそれが6割以上できてるとかで、少なくとも始めたばかりとか、始めてすらいない段階ではないと思います。
始めてすらいない段階で「司法試験に受かる」とか20人に触れ回ってしまいますと、実際に家で教科書や六法全書を開くのが義務っぽいニュアンスを持ってしまいます
人間の多くは達成しなくても自分以外損なわない、自分以外の誰にも迷惑のかからない義務項目からは逃げたくなることが多いでしょう
マニュフェストした時点で、言いふらした時点で成就したかのような錯覚に陥る
場合もあります。
もちろん、願望は色々な人にそれを伝えた方が成就が早いという場合もあります。たとえば「英語をペラペラにしたい」とふだんから触れ回っていて、安く米英へ留学できる手はずを誰かが紹介してくれるとかです。つまり助力者、協力者が現れるとかです。
しかし、いままで述べたように願望をあちこちに言いふらしてしまったがためにやる気が失われることもあると思います。
こういったプロセスで失われる「やる気」というのもあります。
新年によくやるマニュフェストは両刃の剣で、僕個人としてはマイナスの方が大きい気がします。

さらにもうひとつ考えられることは、可能な選択肢(願望)が多すぎて、また時間も存分にありすぎるということです。
時間が存分にあるというのは、先ほど述べた大学生みたいなモラトリアムな身分の人とか、単純に若い人です。
たとえば20歳のAさんと50歳のBさんがいてふたりとも寿命がかりに80歳で一緒だったとしましょう。
どちらが人生の締め切りに近いかはいうまでもないですよね。
しかも、20歳のAさんは一週間のほぼすべての時間を自分の自由にできたとしましょう。
こうすると、どうしても20歳のAさんのほうが時間に対してものすごい余裕をかましてしまうため、お尻に火がつかないんです。
自分の自由にはならない時間をある程度持った方が、時間のありがたみを実感できる場合もある、かえって時間を有効活用できる場合もあります。
もちろんこれは個人差があり、専業作家を20年以上やってる人とかは、全部の時間を自分の意思下においたほうが上手くやっていける人でしょう。
若くてもたとえば18歳でプロ球界に放り込まれたとかであれば、もちろん必死こきますよね。クビになったら一般職に就くしかないですから。
こうであれば、時間も無駄にしないで「やる気」も保たれるでしょう。
もうひとつは、選択肢や可能性がありすぎることです。
人間の可能性がひとつであることは少なく、また運命の人もひとりではない場合が多いでしょう。
このため。あることを手にかけても、違う選択肢にも気が行ってしまうんです。
これで散逸する「やる気」というのもあると思います。
あることがダメだと「さっ、つぎ行こ、つぎ」っていうのが早いんです。
可能性が多い人の方がやる気は萎みやすい部分もあります。これを敷衍すれば、男も女もモテる人の方がしばし「やる気」が不足するんです。
ジャニーズの某芸能人たちみたいに独身が長引くんです。

こうすると、うつ病だとか、世の中が真っ暗に見える悲観主義とか、世の中が馬鹿げて見える虚無主義(ニヒリスト)の人以外では、若い人や、自由時間がありすぎる人、また可能性や選択肢がありすぎる人のほうが「やる気」というのは失われやすいと思います。
もちろん自助努力で自己状況を改善できない絶望的な境遇にいる人もそうかもしれませんし、若い人は「やる気」なんかだしても、手に入るものなんかたかが知れてるじゃん、成功したり結果を出すなんてそんなに素晴らしいことかって思うかもしれません。
しかし、40過ぎて、仕事でこれといった実績がない、パートナーがいない、金もないという人も最近増加の一方ですが、それも結構苦しいものです(実感としてです)でも若い人にはまだ他人事かな…

以上「やる気がない」とはどういうことか、についての自分なりの分析というか考えたことです。

仕事も恋愛も、時間の使い方も、「これしかない」「いましかない」っていう人のほうが結果がでやすいでしょう。
野球のダルビッシュとか松坂とかって大リーグへ行けたじゃないですか。
でも、こういう人たちって、野球のピッチャーを除くと選択肢少ないですよね?「これしかない」っていう人たちの典型かもしれません。
貪欲こそが素晴らしいと主張するつもりもないですけど、僕がnoteに文章書いてるときって、ほかの時間の使い方って思い浮かばないです。
そんなに結果がでてるほうじゃ全然ないけど、ほかのことはあり得ないっていう必然に満ちたときにnoteは書いてることが多いです。
「やる気がない」という状態は、何もないニヒリストみたいな状態というより、むしろ何か(時間や選択肢、人生の満足等)がありすぎることに由来しているのかもしれません。

長い文、御一読ありがとうございました。

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