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意味を読みとるのを諦める

人間の他の生き物と違うところのひとつは、意味を読みとれることかもしれません。

五感が知覚するものから、意味を読み取ってきたんです。

陰陽五行の法則に気づき、天体の動きが人間の性格や運命に与える影響を読み取ってきました。
そこまでいかなくとも、爪がこうなってるのはこういうことだとか読み取ってきたんです。
たとえば、爪に半月が出てる人はそこそこ健康だと言われています。

中国の故事の四面楚歌は、項羽の軍を、まわりで(四面)楚の歌で包囲すれば、項羽は絶望するだろうと劉邦が考えて、
実際、項羽は、楚の歌が聴こえてくると、劉邦の思惑通り、それの意味を読み違えて絶望するわけです。

人間は、五感が感知する様々な知覚から意味を読み取ろうとします。

これは、もう人間の準本能だと思います。

僕は、ひとつ前の投稿で述べた通り、SNSを遠ざけたのですが
それでも、なお、部屋でじっとしてると、救急車に消防車のサイレン、ヘリコプターの飛ぶ音、団地の扉や、外の車のドアの閉まる音
ノイズだらけです。
以前は、SNSアプリに逃げ込んでいたのですが、これが、かえって状況が悪化することに気づきました。
こういうノイズを相殺できる、しあわせな妄想のタネも沢山はありません。

しかし、五感が感知するすべての刺激に、いちいち意味を読み取ろうとすれば、最低ノイローゼは避けられず、悪ければ精神疾患に陥るでしょう。

ノイローゼや精神疾患の人の、五感の知覚の意味変換は、しばし、外の世界を悪意に満ちたものと解釈しています。

人間が知覚する五感の情報には、意味がある場合もあれば、誤読する場合もあり、先ほどの劉邦と項羽のはなしみたいに、誰かが誰かを陥れようとするものもあります(陰謀論っぽいですが)


そうすると、僕らは、どこかで、この、意味を探り、意味を見つける作業を放棄する必要があるのではないでしょうか?

文豪の太宰治は、代表作『人間失格』で、主人公の大庭葉蔵に

ただ、一さいは過ぎて行きます。(中略)たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。

と、語らせています。

太宰は、ある意味、まわりの人間の言動の意味が分からず、これを深読み(猜疑)するようになり、これに脅えた生涯を送った人です。

そんな太宰が、最晩年に達した境地は、「一さいは過ぎて行く」のが唯一の真理に思われたということです。

つまり、人生は、その意味がどうとかではなく、たた、流れ過行くものなのだと

後年、それまでに人生で起こった様々なことを、あとからドラマティックに意味付けできる人は少数派であって
過半数の人には、意味がどうとかではなく、人生とは、ただ、流れ、過ぎ去ってゆくものなのだと

そうすると、僕らは、人生の小局面でおこる細かいことにいちいちその意味を読みとろうとするのを諦めたほうが、精神衛生上賢明なのではないか?

意味がまったくない世界というのは、それもまたおそろしいことのような気もしますが
すべてのことに意味があって、その意味を読み取らなければ、制裁に近い罰が与えられる世界があれば、それもひどいもんだと

僕らは、自己防衛策として、意味を読み取るのを、過剰な意味付けをするのをどこかで諦めるのがよいのではないか?


(ヘッダー写真)
2019/12/16 川崎市某所撮影

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