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ジャッジも建前もない世界

ジャッジをするなというのは、最近よく聞く世界観だ。

一番最初に僕がそれを聞いたのは、いまアラフィフの僕が30才くらいの頃読んだ精神世界の本だったと思う。

「裁いてはなりません」と言ったのはキリストだった。

ことばというのは「コトわけ」だから、それは世の中の分断に寄与するみたいなはなしも、どこかの哲学者のはなしで聞いたことがある。

ジャッジをしない、性急なレッテル貼りをしないというのはひとつの処世方として有効なのかもしれない。

しかし、この考え方にも欠点がないわけではない。

ジャッジをしないのがよいという判断それ自体が、どうしても、そもそもあるひとつのジャッジに基づいているし

たとえば、ジャッジのない世界とは

野球でいえば、ピッチャーが投げた球に対して、それがストライクかボールなのかが決まらないということだ。

フツーにわかることだが、こうであれば、ゲームはまったく前に進まない。

ジャッジというのは行動指針でもあって

それがない世界というのは、自分が今日これから何をどうして、どちらの方を目指すべきなのかについて定まらないということでもある。

しかし、ジャッジをいちいちするのは誰でも疲れることだから
裁判官でもなければ
たとえば、同じ会社に毎日何となく通うとか、
パートナーとの生活を維持するとか
惰性則に従った生活をしようとするのだ。

イチローが野球の世界に邁進できたのは、ひとつには
まわりの何人かが「このひとには野球の才能がある」というジャッジをせざるを得ない状況が成立したからだ。

ジャッジがない世界とは、たとえば、イチローの才能に対して
すべてのひとが「このひとに野球の才能はあると思いますか?」と聞かれて
すべての人が判断を保留にしている状況といえなくもない。

ジャッジは間違うこともある。

たとえば、あるカルト教団の教祖を
「この人こそは救世主だ」とジャッジしてひどいことになることもある。
実際、こういう判断の誤りが、極刑につかながってしまった人たちがいたことはまだ記憶に新しいだろう。

ジャッジというベクトルは、下手すると、終わることのないの言い争いにつかがることもある。

しかし、ジャッジがまったくない世界とは、完全な混沌の中で雨乞いをしてるに等しい状況をもたらしかねない。


つぎは建前についてだ。

いまから20年以上前だが

弟夫婦が家を新築するにあたって、建て前という儀式に参加した。

建築会社の人とか、神主を呼んで、これから家を建てるにあたって行う儀式だ。

本音と建て前というが

建築に携わる(何割かの人)人も、一流の志の高い人を除けば、できればテキトーにやりたいという部分が「本音」としてまったくないとはいえないかもしれない。

たとえば、吉田茂(戦後初の首相)のような貫禄も実力も地位もある人に家の新築を頼まれたら、作る側もテキトーにはやれない。

手抜きなんかをしたらエライことになる。

ところが、まだ20代そこそこの青二才に家の新築なんかを頼まれたら、ごくフツーの人たちだったら、多少の手抜きをすることもあるかもしれない。

実際、弟にはなしを聞くと、適当に干渉しないと、工事もムダにタラタラやられて、しかも、これは住んでから15年以上経って分かってくることだが、ある種の手抜きが露呈してくるのだ。

これは完成したばかりのころには分からない。

その修繕に結構金をとられてるみたいなはなしだ。

僕は、弟の3倍はナメられキャラなので、業者に個人邸宅なんかを依頼すれば、足元を見られて苦い想いをすることは見え見えなので、「自分の家を建てよう」などとは考えたこともない。

他人など信じられないというわけでもないのだが

技量があれば、全部自分ひとりでやりたいくらいだ(まず不可能だと思うけど)

いや、はなしがそれたけど

本音を規制する建て前がまったく存在しなければ、人間は弱いから、どうしても下へ流れてしまう。

社会も一緒で、建て前が失われると、戦前みたいになりかねない。

満州事変から二・二六事件、国連脱退、日米開戦みたいな流れは、全部、ある意味社会が建て前を失ってく過程だったと言えなくもない(僕個人の見方だけど)

満州(中国)の日本軍は、張作霖の乗ってる列車を爆破して、その後中国に傀儡政権をおったてた。

傀儡政権とは、でっちあげでできた国のことだ。

中国に日本の軍部の一師団が、勝手に国をでっち上げたのだ。

いや、厳密には、地上にあるすべての国は、あるでっち上げだと言えなくもないが
それにしても、いま考えても、これはすごいでっち上げで、このあと、国連はリットン調査団を派遣して調査にあたる。

多分もう、ある種の建て前が機能してなかったのかもしれない。

しかし、これは、まだ、日本から離れた満州のできごとだったが

日本でも、二・二六事件という軍部クーデターが起こった。

大臣たちの家の門が戦車で砲撃され、突入した将校たちが10人以上で一斉に大臣を狙い撃ちした。

青年将校にもそれなりの言い分があったのだと思うし、情状酌量の余地がまったくなかったわけでもなかったのかもしれない。

建て前はどんどん崩れ、人々の何割かは、社会生活がアホらしくなったかもしれない。

エロ・グロ・ナンセンスの流行とかは、そういった社会の反映だったかもしれない。

「本音」が言えない社会というのもそれなりに苦しいとは思うけど
「建て前」がまったく機能していない社会も、それはそれで苦しい社会かもしれない。

もしかすると、人間界の自然則とかで、社会の(あるいは人間の)「建て前」なんかは時間軸とともに崩れるのが必然なのかもしれないと思うこともあるし
そういった流れに、なす術もなく戦前みたいに傍観を決め込むしか、人々には手がないのかもと思うこともなくなはい。

それとも、こういった流れに一切なにも言わず黙を決め込むのが真の賢人なのだろうか。

アラフィフなのに青二才のように態度も考えも決まらない自分がいる。

今日は、「ジャッジも建前もない世界」ということについて考えてみました。

御一読ありがとうございました。


(製作データー)
書き始め:2022年5月4日午前7時43分

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