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ブラックパンサーとアメリカンユートピアの違い

ブラックパンサーは黒人のスーパーヒーロー『ブラックパンサー』が活躍するMCUのアメコミ映画であり、かたやアメリカンユートピアは元トーキングヘッズのメンバーのデイヴィッド・バーンによるライブ映像映画である。
これだけ聞くと映画ということしか共通項がなさそうであるが、実を言うと両者の政治的立ち位置はかなり近い。トランプ政権はアメリカとメキシコの国境に壁を造り不法移民排除に舵を切ったが、両映画には反トランプや移民受け入れ賛成、BLACK LIVES MATTER等のメッセージが含まれている。しかし、映画内でそういった政治的主張が展開される時、私の受ける印象はブラックパンサーとアメリカンユートピアで全く違っていた。その違いについて分析してみようと思う。

ブラックパンサー

ブラックパンサーのあらすじはおおまかに以下の通り
アフリカ大陸の架空の国「ワカンダ国」では、ヴィブラニウムという架空の金属が採掘され、近未来的な科学技術として活用されている。ブラックパンサーの変身技術もこのヴィブラニウムによるものである。ワカンダ王国は長らくヴィブラニウムとそれに伴う高度な科学技術により発展していたが、その存在を世界には秘密にしていた。ワカンダ国の国王であるブラックパンサー(本名:ティ・チャラ)は、ヴィブラニウムとテクノロジーを世界に秘密にしたままで良いものかと悩んでいた。そこにキルモンガーというもう一人の王位継承権を持つ人物が現れる。この王位継承権を巡る争いと、ワカンダ国は秘密を世界に公表するか否かというのが、この映画のあらすじである。

あらすじからわかる通り、映画ブラックパンサーは国の方針を巡る政治的な話を多分に含んでいる。この政治的な話の部分について否定的なことを書く(ネタバレ含む)が、決して作品全体を貶めたいといった動機はないことを留意してほしい。(政治的な部分以外はヒーロー物のアクション映画としてすごく楽しめる作りになっているのでおすすめです)

「危機に瀕した時、賢者は橋を架け、愚者は壁を造る」これは劇中でブラックパンサーが言った諺?のような台詞である。もちろんこれはトランプ政権がメキシコとの国境に壁を築いたことへの批判である。この反トランプの姿勢を持ってブラックパンサーを絶賛している人もいるが、私はこの台詞からあまり良い印象を受けなかった。暗に反トランプの「我々」は賢者側であり、壁を造るトランプやその支持者の奴らは愚者である、という傲慢な姿勢が私にとっては鼻についた。

ブラックパンサーがワカンダのヴィブラニウムやテクノロジーを秘密のままにしておくべきではないと考えるかというと、アフリカの周辺諸国の人々への罪悪感がある。アフリカ周辺諸国では、今尚飢餓で亡くなる人は少なくない。ワカンダはテクノロジーを秘密にし、周辺諸国で飢餓で亡くなる人達を見捨ててきた。ワカンダの科学技術を使えばそういう人達を救えたのではないかという罪悪感である。しかし、この動機についてもツッコミどころはある。ワカンダの科学技術を世界に公表するかどうかは二の次の話であり、アフリカの周辺諸国を飢餓から救いたいのであれば、まずやるべきことは井戸を掘ったり水道インフラを整えることであろう。さらに農作物の品種改良の手助けをすることも良い。ワカンダの秘密を保持したままアフリカ諸国の飢餓対策に貢献するやり方はあるが、そのことには言及されず「アフリカ周辺諸国の飢餓は問題だけど、ワカンダのテクノロジーは秘密にしなくちゃいけないからなー」という嘆きを聞かされる。私のような斜に構えた人にとっては、ツッコミどころがある理屈で「だからワカンダの秘密を公表する必要があるんだ」と説明されると、それはどうかなと思ってしまうのである。

ブラックパンサーは映画のラストで国連の議会でワカンダの秘密を全て明らかにすることを宣言する。そして、とある白人の代表から「失礼ですが、ワカンダはただの農業国では?」という質問を受け、ブラックパンサーはこれからギャフンと言わせてやるぞとでも言いだしそうな意味深な笑みを浮かべて終わる。確かに、アフリカや東南アジアといった開発後進国に対して明け透けな見下しをする人は日本人でも少なくないし、そういう態度に一石投じたい気持ちにも同感できる。しかし、このシーンが物語のラストシーンとして相応しいかという疑問は私の中にある。ハッピーエンドのエピローグは言わば主人公と観客にとってのご褒美のシーンである。ブラックパンサーはアフリカ周辺諸国で飢餓で亡くなる人達から目を背け続けてきたことに心を痛め、そういう人たちを救いたいからこそ、ワカンダのテクノロジーを秘密のままにしたくないという動機があったはずである。決して今まで見下してきた白人達をギャフンと言わせたいという動機ではなかったはずだ。ならば、ワカンダのテクノロジーを思う存分アフリカ周辺諸国に提供し、飢餓対策に貢献するという長年の夢を叶えたブラックパンサーの姿こそ、エピローグに相応しいのではないかと私は思う。穿った見方になってしまうが、フィクションの世界で主人公の夢を叶えさせることよりも、差別主義者を攻撃したいという制作者の欲が勝ってしまったのではないかと思う。

アメリカンユートピア

アメリカンユートピア

アメリカンユートピアは元トーキングヘッズのメンバーのデイヴィッド・バーンによるライブ映像を映画として編集した作品である。ここでは、その政治的メッセージがあるところにのみi言及を留めるが、凝りに凝った最高のパフォーマンスの数々を是非一度見てみてほしい。

アメリカンユートピアはデイヴィッド・バーンらが行ったライブツアーの名称である。そこにはデイヴィッド・バーンらのアメリカをユートピア(理想郷)に近づけようぜという主張がある。
デイヴィッド・バーンと舞台に立つ11人の演奏者やパフォーマーはさまざまな人種・国籍を持つ。デイヴィッド・バーンはそのことに言及しつつ、「みんな一人一票の投票権を持っている。みんな選挙に投票してアメリカをユートピア近づけようじゃないか」と呼びかける。彼は自己反省の言葉を何度も口にしつつ、「あくまで自分が変わらなければいけない。一人ひとりが良い方向へ変わることでアメリカ全体が良くなる」と訴える。
残念ながら、投票率が上がれば国民にとってより良い政治が為されるようになるという保証はどこにもない。その上、選挙で国をユートピアにするというのは、夢のまた夢のようなものであることは間違いない。しかし、デイヴィッド・バーンのようなアメリカのインテリが「みんな選挙に行って、アメリカをより良い国にしよう」と愚直なまでに真っ直ぐなメッセージを発すること自体を否定する気にはならないし、むしろ好ましく思う。

また、ライブの後半では、BLM(BLACK LIVES MATTER)を訴えるジャネール・モネイのプロテストソング「Hell You Talmbout」を実際に犠牲になった人達の写真を映しながら熱唱する。これもBLM運動に賛同するニュアンスがあるが、過激なBLM運動家が毛嫌いするようなQアノンやトランプを排除してやろうというようなニュアンスは鳴りを潜める。あくまで、犠牲になった人のために鎮魂歌を歌って思いを馳せようという程度だ。

デイヴィッド・バーンは政治的に敵対関係のある人や主張に対して攻撃的な姿勢は表に出さない。そこがブラックパンサーと近い主張でありながら、決定的に異なる。

閑話休題

ここで筆者がアメリカの移民政策についてどう考えるかを記したいと思う。正直、ここは読み飛ばしてくれてかまわない。

ここまで、読んだ人はおおよそわかるだろうが、私はアメリカのリベラル派の不法移民も快くどんどん受け入れようという姿勢に、かなり懐疑的である。その論拠の一つが需要と供給のバランスだ。残念ながら、不法移民のほとんどが経営者層ではなく、労働者層である。不法移民が増えると労働者層の賃金を抑制する効果が働く。働き手を求める企業は賃金の条件を良くして人手を確保しようとはせず、安い賃金でも働いてくれる移民で人手を確保してしまうからだ。また、デイヴィッド・バーンのような人気バンドマンやハリウッド俳優、スポーツ選手が、いくら自分らの同僚に移民がいてその人物と仲良くしていると主張しても、不法移民を増やすことを是とする意見には同意できない。それは、移民でも一流のアーティストや俳優が増えることと、不法移民が増えることはあらゆる意味で異なるからだ。国民の代表たる政治家は、一流のアーティストや俳優の意見だけでなく、不法移民の多い町で移民とアルバイト先や就職口を奪い合っている若者の意見も聞く義務があると思う。おそらく彼らの持つ移民への印象はリベラル派が持つ印象と大きく異なるだろう。

政治的メッセージの2つの方法

ブラックパンサーとアメリカンユートピアの政治的メッセージ方法の違いを整理しよう。ブラックパンサーは、トランプのような政治的立ち位置の敵対者を論破したりする攻撃的な要素がある。対して、アメリカンユートピアは攻撃的な要素はデイヴィッド・バーンの自己反省的な台詞にのみで、ほとんどがポジティブなメッセージを発している。では、アメリカンユートピアのやり方が正解で、ブラックパンサーのやり方が不正解かというと、決してそうではない。私がブラックパンサーを見て鼻につき、アメリカンユートピアを見て好意的な印象を持ったのは、私自身がブラックパンサーやアメリカンユートピアとは異なる意見を持っているからだ。

ブラックパンサーのような政治的意見の対立する他者を揶揄したり攻撃したりするやり方は古今東西多くの創作物で行われている。では、なぜそのように政治的対立者を批判的に描くやり方が行われているかというと、ざっくり言うと内輪ウケが良いのだ。たとえば、映画「新聞記者」では、モリカケ問題等の実在の事件をモチーフにして扱っており、政権や内閣府を批判するような内容である。正直言うと、新聞記者は一本の映画としては観るのがしんどくなるくらい残念な出来というのが、私の感想である。しかし、新聞記者は一部では大絶賛されており、日本アカデミー賞最優秀作品賞に選ばれるほどだ。ブラックパンサーは新聞記者よりもエンターテイメント作品として格段に面白いが、本質的には政治的敵対者を風刺して攻撃する姿勢に変わりはない。ブラックパンサーの政治的メッセージに鼻白む私のような人がいる一方で、そこを絶賛する人もいるのだから、それが間違ったやり方とは言えないだろう。

アメリカンユートピアの手法を用いている作品の一例を挙げるとズートピアがある。ズートピアの世界では、肉食動物と草食動物が文明を築き共存して暮らしている。作品の根底にあるテーマは差別や偏見である。肉食動物と草食動物がそれぞれ相手をどう見ている/見られているのかが、現実の人種的差別や偏見のメタファーとして用いられている。ズートピアは作品を通じて反差別や偏見をなくそうという主張をしているが、「誰々は差別主義者だから政治家を辞めろ」といった現実によく目にする反差別を訴える人のような態度は一切取らない。主人公のウサギのジュディの演説で映画は〆られ、ここにズートピアの差別に対する姿勢が集約されている。ジュディは演説で自分の中にも偏見があったことを認めつつ、それでも種族関係なくお互いを尊重しよう、一人ひとりが変わることで世の中を良くしようと訴える。ネガティブ要素は自己反省に留め、みんなで世界をよりよくしようという理想論を語りポジティブメッセージを訴える。これこそがアメリカンユートピアとズートピアの共通する手法である。私はこの手法を用いているアメリカンユートピアやズートピアに反感の念はないが、いくらポジティブメッセージでも理想論を語る以上、「マルクス主義の世界革命を起こして世界を塗り替えよう」というようなあまりにも突飛な理想論だと受け手からの共感は得られないだろう。過激な主張はこのやり方とは合わないのだ。この点が、「新聞記者」で獣医学部設立の目的が生物兵器研究であるという陰謀論的展開になっても称賛されている手法と異なる。「みんなでちょっとずつでも政治に興味を持って投票するようになったら、国の政策ももうちょっと良くならないかな」「差別は私自身もやってしまいがちだけど、みんなちょっとずつ自分の偏見に気を付けるようになったら、差別も減らないかな」といったある程度普遍的・現代的な主張でないと、共感されないのではないだろうか。

ブラックパンサーの政治的敵対者を批判したり揶揄したりするネガティブメッセージと、アメリカンユートピアの理想論を語るポジティブメッセージの2つの政治的メッセージの方法の違いを紹介した。2つの方法はどういう層にウケるのかという違いはあるが、この2つの方法はどちらも正解なのだ。

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