見出し画像

気が強くて、ずるくて、バカじゃない70代女子と喫煙室で話したこと

私はなぜか、見知らぬ人によく話しかけられる。イギリスの田舎でイギリス人から道を訊かれるほど、話しかけられやすい体質だ。ちょっと疲れた時、一服したいときに地元駅のドトールに入る。東京の東端にある下町のせいか、年配の方がよく利用されていて何度か初対面の老婦人に話しかけられることがあった。喫煙できてあまり高くつかない駅ナカのドトールは、お稽古事や買い物帰りの人、バスを待つ暑さ寒さからちょっと避難する人など年配のご婦人がけっこうおられる。たまたま隣り合わせた私に「ねえ、あなた…」と話しかけてきた彼女たち。去り際に「ではご縁があったら、またここで!」と言うものの、再会したことはない。

あたしは気が強いから

2019年のある寒い日、買い物を終えて一服したくなった私は小岩駅にあるドトールの喫煙席に入り、テーブルにコーヒーを置き、通路側の椅子にベージュのコートをどさっとかけた。狭いテーブルとテーブルの間を抜けようとしたら隣にいた女性に「あなた!ちょっと!!」と声をかけられた。あちゃー、お尻が引っかかったか? と思って反射的に「すみません!」と言いながら振り返ると、紙巻きたばこを手にした老婦人が

「あなた、そこにコートをかけたら誰かがコーヒーをひっかけるかもしれないよ!そしたらダメになるじゃない。そこに置かないでこっちに持ってきなさい」

と、ちゃきちゃき話しかけてきた。はっ、ありがとうございます、ぼーっとしてるもんで…と言いながらもそもそコートを移動させると、ちゃきちゃき婦人は

「ほら、男の人とかさ、気が付かないでしょう。でも言い返しにくいじゃない? 相手が男だとさ。あたしは気が強いから言っちゃう方なんだけど、やっぱり面倒になったらヤでしょ。やっぱり女はさ。強く言えないもんだからさ」

とセブンスターに火を点けながら、ヒソヒソ気味に話をつづけた。なるほど、女性の処世術だ。面倒になりそうなことには自分で気を付けて予め手を打っておくこと。私は必ずしも気が弱いほうではないが、通路側の座席に置いたコートに誰かがよろめいてコーヒーをこぼして「こんなところにコートを置いておくほうが悪いんじゃ!」と大きめの声で言われたら、黙るだろう。確かにこのドトールの喫煙席には、控えめに言っても柄の良くない人が多い。まあ、私もあまりお柄はよくない風体だが。

なるほどなるほど、と婦人の教えに納得しながら自分のたばこに火を点けてコーヒーをすすろうとしたら、彼女はこちら側に体を向けてどんどんおしゃべりを始めた。自分の気の強さは息子ではなく娘が受け継いでいること。今、「いろいろあって」独身の息子と同居していること。その息子が肺を患って禁煙したので、遠慮してできるだけ家でたばこを吸わないこと(だから、ここに来ちゃうんだわ)。

この年になって好きなたばこを止めるのはバカみたいだし、あなたもいいのよ迷惑にならなきゃ。女だってね、好きなものは、やりゃあいいわよね。ねえ、あなた。自分で稼いでたらさ、あなたも自分で稼いでるでしょ。そういう顔してるよ。だんなはいるの? ああ独りなの、そりゃいいけどやっぱり用心はしなきゃね。いくら気が強くたって、ほら、男の人は声も大きいし手でもあげられたらさ……

年のころは70代後半くらい。特別おしゃれな感じではないが、きちんとした身なりで姿勢もしゃんとして発声も明瞭だ。ちょうど #MeTooや  #KuToo といったジェンダー問題が話題になっていて、私もなぜか別方向からジェンダーやフェミニズムのことに関心を持ち始めていた時期で、「気の強い女ってなんだよ」なんてことを考えていたところだったので、とても興味深く彼女の話に相槌を打った。

東京大空襲を逃げながら、ずるいことをした

相槌のリズムがよかったのか、「あたしは気が強くて」の話はどんどん膨らんでいった。

「戦争の時、大空襲があってね。あたしの家は深川のあたりだったんだけど、必死に逃げたんだよ。市川に親戚がいるから、そこまで行こうってなって。小松川の鉄橋をね、へばりついて横歩きして渡った。来た方は真っ赤になってるし、遠くに目をそらしたりできないんだよ、落ちるからね。横歩きだからね。たくさんの人がそっち(市川方面)に向かってたよ」

「弟がいてね、橋を渡り終わって明るくなってきたから見たら額が切れてるんだよ。なにか重いものがぶつかったと言ってたけど、弟もあたしも明るくなるまで全然気が付かなかった。あたしは女学校に行ってたんだよ」

これは1945年(昭和20年)3月10日のいわゆる東京大空襲(下町空襲)のことだろう。深川から小松川あたりが甚大な被害を受けた場所だというのは、さすがに知っている。でも、その光景を目にしたことはないし、じつは他府県育ちなので「歴史上のできごと」としか認識できない。まさにその体験をした彼女に、それは…よくぞ…みたいな相槌しか打てなかった。

「弟の額に手ぬぐいだかなんだかを巻いてやって、ぞろぞろたくさんの人と歩いたんだ。このへん、小岩あたりは田畑でさ。農家がいっぱいあって、おにぎりを配ってくれてたんだよ。何軒もね、漬物なんかも添えてね。本当にありがたいもんだった。ただでくれるなんて。でもあたしは、ずるいんだ。なんでだかわからないけど、もらったおにぎりを持ってた袋に…手提げの、なんて言ったっけ。(ずた袋ですか?)そうだっけ、それに入れたんだよ。2軒目も3軒目も。なんであんなことをしたんだろう…自分のぶんだけもらやいいのに。なんでか…市川の親戚に渡そうと思ったのか…わからない。たくさんの人がいるんだよ。あたしらの後ろにもずっと、ぞろぞろ人が来るのに…あたしはずるかった」

画像1

東京市(当時)の空襲被害状況をまとめた地図(戦災概況図)[1]。空襲日ごとの罹災地域が分かる。1945年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために第一復員省が作成した(Wikipediaより)

本職タイピストに負けない気の強さ

彼女の女学校は焼失して遠くに移転して通えなくなったのでそれきりになり、働きだした。株式会社日本タイプライター(現キヤノンセミコンダクターエクィップメント株式会社)に事務員として勤めたという。そうか、和文タイプライターは大正時代に登場して、タイピストと言えば東西問わず女性の花型職種。職業婦人のかなり上位だったはず…なんてことを思い浮かべながら、そういえば製造元とか知らないなあと相槌に質問も重ねていった。

「あたしは女学校をとちゅうで止めちゃったから、大したことはできなかったんだ。でもね、あなた、日本タイプライターだよ。立派な会社で、上の方には大臣の、ほら〇〇さんとか関わっていてね(※名前は失念)、アレがアレだから何ていっても立派な会社なんだよ。タイピストって学校に通わないとなれなくて、でも女でもかなり稼げたんだ。あたしは見よう見まねでタイプを覚えた。資格は持ってないけど、タイプライターの会社にいるんだからね。ちょっと急な時とか、誰もタイプできる人がいないときにパパッとやったよ。でも、給料には付かないんだけどね。資格もってないしね。でも、同じくらいできたんだよ」

和文タイプは英文よりもはるかに複雑で操作も仕事も難しい。子どもの頃、父の職場で見たことがある。

日本タイプライターという会社名は初めて知ったが、政治が絡んでいると聞いてちょっと調べると、いろいろおもしろくて大正から昭和にかけての出版、ホテル、政治、国語など多岐に渡って話題がつながる。ちょうど西武の歴史に重なる部分もあるようだ…おっと、これは置いておこう。だが、戦後のいち事務員だった彼女にも、その会社の威光はじゅうぶんに伝わっていた。

また、戦前からある「職業婦人」という存在にも思いを馳せる。タイピストについては、大塚商会ウェブサイトで『OL誕生物語 タイピストたちの憂愁』(講談社)の著者・原克氏にインタビューした前後編にわたるこの記事がたいへんおもしろい。

どんどん検索すると、朝日新聞の「昔の新聞点検隊」というコラムで「働く女は 一九三一年の女性のほこり タイピスト学校御紹介」という記事がおもしろい。昭和6年のものだが、職業婦人の花形としてタイピストの需要が増えれば育成機関も増えるし宣伝を…という感じがよくわかる。

見逃していたが、8月5日にNHKの「あさイチ」で戦争中の“働く女性たち”を特集していたそうだ。そういえば、明治生まれの祖母が戦前まで小学校の教師を務めており、「私はいわゆる“職業婦人”だったのよ」と話してくれた。

すでに3本目のセブンスターに火を点ける彼女は、戦争のせいで十分な教育を受ける機会を奪われたが、気が強くてずるいからこそ向上心も高く、教育費をかけることなくタイプの技術を身に着けたのだ。すごーい。けれど、きちんと資格を持ったタイピストの給料には及ばないという悲哀が、元非正規雇用者の私には伝わってくる。

バカな女にはならないよ

彼女は日本タイプライターに勤めている間に伴侶と出会い、小岩育ちの夫とそこで暮らし始めた。私は4年前に引っ越してきたからあまり小岩のことを知らなくて、と言うと商店街が賑やかで華やかだったこと、それでも少し歩けば田畑がひろがりのどかだったこと、何より鉄道のおかげで働くにも遊びに行くにも都心へのアクセスがよかったことなど教えてくれた。

「ここにはさ、戦争が終わってすぐに赤線ができたんだよ(ヒソヒソ)。あなた、知ってる?(ええ、米軍相手の…遊郭というか、アレですよね)そうそう。あたしが越してきたころには無くなってたと思うけど、今でも色っぽい店が多いわね。主人は知ってたらしいよ。近所の人もあるってわかってるけど、無いふりをしてたんだって。そんなものは私たちには関係ありませんっていうね。わざわざ違う道を通って、もし通らなきゃいけない時も顔を背けてたらしいよ。主人は学生の頃に、そばまでいったらしいんだ。いや、まじめな人だから入らなかった。学生さんだしね。ほら、詰襟を着た…でも見てみたかったらしいんだ。周りは田んぼで、川の近くにあって…ちょっと離れてるからね。そんなものはございませんって顔を皆してたんだよ」

ほうほう、1945(昭和20)年にできた慰安所、東京パレスのことだ。そして、話はご主人のことに入る。早いうちに両親を亡くした兄弟の下だったこと。染物の図柄を描く職人で、その界隈で有名だった義兄さんは「妹ができた」とたいそう喜んで、とてもかわいがってくれたことや親戚関係の話がわやわやと出てきて、誰が彼女の兄弟姉妹でその連れ合いなのか、父方や母方が私には追い付かなくなったけれど、とにかくふんふんと聞き続けた。子どもができて彼女は退職したが、間もなくご主人も会社を辞めて小さな会社を始めたそうだ。

「子どもが学校に上がったら、手持無沙汰じゃない。だから、あたしはすぐに働きだしたんだよ。主人の会社を手伝ってね。会社っつっても事務員が一人か二人いたりいなかったりだから、あたしも大きな会社で働いてたんだからすぐに役に立つわけ。タイプも打てるしね。暇だなんて思ったら、働きゃいいんだよね。そうやって主人の会社を回してたんだ」

そこで、ふうとたばこの煙を吐いてから、少し声のトーンを落として彼女は続けた。

「でもね、ある晩あたしは見ちゃったんだよ。主人がね、女の人とレストランに入っていくんだ。会社の近くの。会社は秋葉原のあたりにあったんだけど、事務員の女なんだ。あたしより若い子で、たまたま見ちゃった。仕事帰りにあたしとレストランに行ったことなんて、無いよ。そりゃね、その前から何かおかしいなとは思ってたよ。でも、黙ってたんだ、見た訳じゃないからと思って。それを見ちゃって、どうしたって仕事帰りに事務員にごちそうするって雰囲気じゃない。できてたんだね。あたしは、やっぱり言わなかった。主人が死ぬまで言わなかったんだ。だって、バカみたいじゃない。主人に言ったって、事務員に言ったって何も変わらないんだ。やっちゃったことはさ。変わらない。だから、あたしはバカな女にはなりたくないと思って、黙ってたんだよ。あの人はあたしが見たことも知らないままだろうね」

そして、あたしは気が強いから言う時は言うんだ、おかしいものはおかしい、ダメなものはダメって。相手が男でもさ、と彼女は続けた。

「でも、最近は娘から『お母さん、なんでもポンポン言うもんじゃないよ。年寄りだからって多めに見ない人だっているんだから、危ないよ』って言われるんだよ、あはは。でもほら、こういう時にさ、あなたみたいな若い女の人が困ったことになりそうだと思ったら、黙っちゃいられないよ」

人生の信条や後悔、疑念の混ざり合った「何か」

おそらく私は彼女の娘と同年代だろうから、アラフィフでも“若い女の人”の範疇に入るのだろう。その後も彼女は

・あたしは気が強い
・あたしは空襲から逃げる時にずるいことをした
・あたしはバカな女になりたくないから、黙ってた

の上記エピソードを、何度も何度も繰り返した。ご老人や独居の長い人は、話を繰り返しがちだが、話したことを忘れて繰り返す時と、自分でも気づかないうちにため込んだ「何か」を吐き出し続ける時がある。きっと、彼女はこの3点を生きてきた中で信条や後悔、疑念の混ざり合った「何か」として繰り返していたのではないだろうか。特に身内には、我が子たちだからこそ言えない話題もある。それをちょっとどんくさそうな独り身でたばこをプカプカ吸う私に、話したくなったのだろう。

私は、戦中戦後の生き証人の話を、その場でおぼろげな昭和史の記憶を引っ張り出しながら相槌を打ち続けた。でも、この3点は現在の私や、もっと若い女性たちも抱くものではないだろうか。気が強い女、ずるい女、バカなことはしたくない女…。ちょっと前、同じ小岩の別の喫茶店でたばことコーヒーを楽しんでいたら、隣席の大学生らしき男女ふたり(カップルではない)の話が耳に入ってきて、男子がしきりに「バカな子とは付き合えないよ~。ちゃんと賢い子でなきゃ、俺はイヤだな。気が強い子もイヤだよ、なんでもズケズケ話すようなのもちょっとね~」と話していた。きっと、男性の抱くものも戦前辺りからずっと変わらないのだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?