私という人間について:自己肯定感

このような時代、このような時期に生きていて、自分について気づいたことが一つある。


それは自分が真面目すぎて堅すぎて、面白くないという事。


私はこれによって生かされてはいるし、アイデンティティでもあるのだけれど、これのせいで本当に今生きづらい。


共感してもらえる方も居られると思うが、昔から私はいわゆる真面目なタイプだったと思う。


学校で言えば、掃除は当番ならやるのが当然と思っていたし、グループワークが進まなければ自分一人だけでも頑張らなきゃと思ってしまうし、部活は休まないで練習する。そんな人間だった。勿論、これだけが真面目な定義ではないと思うが、少なくとも先生や仲間にに迷惑はかけまいと思うタイプであった。



でも、真面目に頑張った自分というのは自己満足のツールに過ぎないのだとこの緊急事態が私に気付かせてしまったのかもしれない。



何でそれを感じたか、それはキラキラした日常を過ごす友達を見て、なんで私はあれが出来ないんだろう、と思ったことがきっかけだったと思う。具体的に言えば、居酒屋で飲み会をしたりディズニーに行ったりバイトをしたり遊んだらしている友達を見てそれをしない自分と比べたとき、である。


そういう風に生きたいならそういう風に自分が楽しいようにすれば良いじゃないと思う方もいるだろうし、心の中で自分自身にも何回も何回もしたいならそれをしている人もいるんだからすれば良いじゃないと思った。でも未だ私は厳粛な自粛期間の中にいる。


何が私のストッパーになっているのか、看護学生という身分のせいか?大学に外出を止められているせいか?家族に迷惑をかけたくないからか?4月からずっと考えてきたが、責任転嫁するのはもう辞めよう。全て自分のせいだ、私がこういう性格だから自分で自分を止めているんだ。誰に強制されるわけでもなく私は自分自身でこの道を選んでいる。


私は昔からこのような性格だったから、真面目さに取り憑かれているのだと思う。これがなくなってしまったら自分ではない、と思うほどに真面目に生きようと懸命なのだ。だからこそ、このような世の中になっても数少ない友達と会うこともできず、ずっとSNSに張り付いてつまらない人生を1年間も過ごすことになってしまった。



私はこんな自分が好きではない。自分が憧れるのは前の記事にもあるようなゴシップガールに出てくるブレアウォルドーフのような人物だ。

でも、私はこれからも変わらないだろう。自分の根幹にはこの真面目さがあって、同じことを繰り返すのだろう。


今思っているのはせめて、私だけはこのような私を認めてあげたい。自分自身の生き方は、私にしか出来ない素晴らしい生き方だ。自分のことを自分で認められるようになりたい、ということだ。



今は自分がなんてつまらない、面白みもない、言うなれば真面目すぎると思っているし、自分の人生や生き方を肯定できなくなってしまっている。


いつか、自分自身で自分を肯定できる日が来るだろうか。自分を受け入れて、自分基準で生きる人になりたい。なるぞ。




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