見出し画像

夏野菜カレー ── 分岐、やがて溶け合う『熱帯』 ── 水谷紗羽良の挑戦 ── 僕の『熱帯』

 これは数年前の話であるが、大学二回生に進級した四月のこと、僕はサークルの新歓コンパに参加していた。
 さらにそれより一年前の僕は大学生になりたてぴちぴちの新入生であり、なんとなく自分よりずっと大人びて見える先輩方に歓迎される立場であったが、一年の時を経て今度は新入生を歓迎する立場になってみると、彼らは鮮魚のようにぴちぴちとした活気を湛えており僕らよりずっと若く見えた。

 その日の新歓コンパの会場は、大学の裏手、山麓の緩やかな斜面の途中にある寂れたカレー屋だった。店を貸し切りにした飯田先輩が言うにはそこは隠れた名店であるそうだが、大学生になって間もない後輩たちをどうしてわざわざカレー屋に連れてきたのか、そしてどうしてこんなディープな店を選んでしまったのか、僕には分からなかった。カウンターの上では胡坐あぐらをかいた仏像が何体も横に並び、喜怒哀楽の表情を浮かべている。壁に目を向けると赤い直角三角形を二つ重ねたネパールの国旗が張られていた。

「カレーのスパイスは想像力を刺激するから」

 飯田先輩はいつものように眼鏡を持ち上げながら平然と言っていたが、彼に同調する人は少なかった。たとえカレーを食べたかったのだとしても、せめてみんなの嗜好に配慮してファミレスにしておいたほうが新入生も楽しめただろう。

 まだ少し緊張している様子の新入生たちをばらけさせてから手近な席に着くと、僕の正面には女の子が座っていた。彼女は綺麗な黒髪をした月夜が似合いそうな子で、水谷紗羽良さはらという変わった名前をしていた。

 グラスを掲げ「乾杯」と合唱する。各々が好き勝手に話し始めると、僕は当然水谷さんの話し相手をしなければならず、出身地を聞いてみたところ彼女は愛媛と答えた。

「へえ、じゃあ下宿生だ。僕は生まれも育ちも岡山の自宅生だよ。いいなあ、羨ましいなあ」

「出身は愛媛ですけど、以前は東京に住んでいましたよ」

「ますます羨ましい! 東京にいたのなら、なんでわざわざ岡山の大学に進学しようと思ったの?」

 彼女は水を一口含み、レモンの風味を味わうようにゆっくりと飲み込んだ。
 そしておもむろに口を開いた。

「旅をしようと思ったのです」

 新入生らしからぬ落ち着いた口調で、岡山に来たことは自分にとってちょっとした冒険なのだと語る。初めは大人しい印象だったが一度火がつくと饒舌になり、僕は彼女自身の話を聞いていたはずなのに、気がつくと岡山を舞台とした小説の話を聞かされていた。

 水谷さんは本の虫だった。

 カレーを載せたテーブルの上に、次から次へと小説のタイトルが散乱していく。僕も多少は本を読むけれど、水谷さんが口にする小説は知らないものがほとんどだった。
 そんな岡山と縁深い作品群に紛れて、机上にころんと転がったのが『熱帯』である。その名前には聞き覚えがあった。

「飯田先輩、ちょっと、こっち来てくれますか」

 僕が呼ぶと、身振り手振りを交えて話し込んでいた飯田先輩の表情が訝しむようなものへと変わる。彼はラッシーがたっぷりと入ったグラスを手にやって来て、僕と水谷さんの顔をじっとりとした眼差しで交互に見比べてから僕の隣に詰めて座った。

 僕は飯田先輩が『熱帯』に魅了されていることを思いだしていた。

 最後まで読んだ人間がいない謎の本。退屈な内容だから投げだしたのではなく、その不可思議な物語は本を手にした人々を魅了し、なのにふとした瞬間に手元から消えている、『熱帯』とは存在そのものが謎に包まれたまさに奇書の中の奇書である。本が好きで読書会にも顔を出している飯田先輩は、サークル内でもしばしば『熱帯』の話をしていた。しかし『熱帯』を読んだこともなければ書店で見かけたこともない僕たちは、インターネットで検索しても姿を見せてくれないその本の正体は飯田先輩の妄想なのだと信じて疑わなかった。

 今目の前にいる女の子が『熱帯』について知っていると伝えると、彼の表情は訝しむようなものから一変して、期待の色が見てとれた。

 水谷さんが『熱帯』の話を再開する。

「その『熱帯』は、主人公が岡山駅東口を出て桃太郎像をギロリと睨むところから始まります」

 そこまで言ったところで、飯田先輩が慌てて続きを遮った。

「ちょっと待て、それはどこの『熱帯』だ? 『熱帯』の主人公は漂流者だろう」

 泡を食って大きな声を出す彼の圧力に、水谷さんはきょとんとしていた。やがて「ふふっ」と息を漏らし肩を小さく揺らす。

「申し訳ありません。これは私が新たに書こうとしている『熱帯』なので、佐山尚一さんが書いたものを本物とするなら、ただの贋作の話になってしまいますね。本当に、唐突に失礼しました。ですが、私が構想している『熱帯』の主人公も、無味乾燥な現代日本に産み落とされた一種の漂流者なのですよ」

「滅茶苦茶だ」飯田先輩はストローをくわえ、ヘンテコな顔でラッシーを飲んでいた。「でも、君も佐山尚一を知っているんだな」

 水谷さんは頷く。「ええ、知っていますよ。彼……彼女かもしれませんが、佐山尚一さんが書いた小説を私も読みました」

「どうだった」

「名作の予感がしましたね。最後まで読めなかったのが口惜しい」

 最後まで読めていない、そういう事情も手伝ってか、『熱帯』は本の虫である水谷さんにとって忘れられない一冊となった。『熱帯』が見せてくれた鮮烈な不思議をいつになっても思いだせるように、また他の人にも同じような体験をしてもらうために、彼女は新たな『熱帯』を書く決意をしたのだそうだ。岡山は水谷版『熱帯』に描かれる予定の、複数ある舞台のうちの一つらしい。

「もしかして、岡山の大学に進学した理由って……」

 岡山を念入りに取材するためですか? そう聞きたかったけれど、彼女が意味深長に微笑むので核心に触れる勇気を持てなかった。

「岡山に来たのは、こっちに住んでいる友達に勧められたので」と、常識人らしい回答で誤魔化される。

『熱帯』を知る仲間と遭遇できたことがよほど嬉しかったのか、水谷さんと飯田先輩は佐山尚一が書いた『熱帯』の内容を、まるで「答え合わせ」をするかのように冒頭から辿った。彼らが不思議な小説の話で盛り上がっているのに興味を惹かれたサークルの会員や新入生が、一人、また一人と増えて、仕舞いには大きな円陣が出来上がった。古めかしいカレー屋が若者の活気で蘇っていくような気がした。カウンターの上に様々な表情をした仏像が並んでいる。そこに紛れて鎮座する、ふくふくと太った達磨が僕を見つめ返している。「君は、彼女たちと『熱帯』を語らないのかい?」そんなことを言われても、僕は『熱帯』を読んでいないのだ。「君には君だけの『熱帯』があるのに、なんてモッタイナイ」

 漂流、記憶喪失、南の島、佐山尚一の登場、観測所──、二人の「答え合わせ」が進んでいくと飯田先輩は自信がなくなってきたのか、次第に目が泳ぐようになり、額に大粒の汗を浮かべながら店内のあっちやこっちを見回して、小説の内容を思いだすヒントを探しているように見えた。

「ダメだ、何度やっても『無風帯』が邪魔をする」

 飯田先輩が頭を抱えてしまっても、水谷さんはむしろ感心しているようだった。

「でも『星屑が流れ着く花畑』なんて、私は覚えていませんでした。とてもロマンチックですね」

「そんなことはない。あれはあやふやな記憶だよ」

「では、『砂漠の宮殿』については思いだせませんか」

 飯田先輩の目が見開かれたのが分かった。「『砂漠の宮殿』の先には」と、彼は呟いた。

「ええ、『砂漠の宮殿』、その先で待っているのは──」

 不思議な感覚が僕を満たしていた。ここはどこだろうと目を凝らすと、行く手には巨大な門がそびえている。錆びた金属が擦れる音。その音が少しずつ軽くなっていき、門が開きつつあった。

「『砂漠の宮殿』より先を語るには、まずこの話をしておかなければなりません」

 彼女はふっと息を吸い、世紀末の預言者みたいに厳かな雰囲気を漂わせて語り始めるのだった。

「神田神保町の『夏野菜カレー』。その出会いと別れが、私を新たな旅路へと導いたのです」

 
       *


 高校生のころ、東京にいた私は二十三区ではなく府中市に住んでいました。

 府中は素晴らしい町です。市の中心には大國魂おおくにたま神社があり、東京競馬場や多摩川ボートレース場もあるので夢を追いかける人々が自然と集まってきます。私が住んでいた下宿屋の人たちも競馬が大好きで、いつも暴れ馬のように鼻息を荒らげながらレースの予想をしていました。その人たちの薫陶を受けた私もまた馬を愛し、いつか馬券の神様に愛されたいと密かに願っていました。

 しかし私の本質は本の虫ですから、毎日府中に留まっているわけにはいきません。せっかく東京の人間になったのだから世界最大級の本の街を満喫しなければと勇み立ち、休日になると半ば癖のように電車を乗り継いで、よく神田神保町に出没していました。そこのけそこのけサハラが通る。私はそんな強い気持ちを胸に宿して、数多ある古本の砦を攻略しようと日々奮闘していたのです。

 古本との戦いに明け暮れ、活字の嵐の中で遭難しそうになっていた私を救ってくれたのが、神保町名物のカレー屋でした。本の街はカレーの街でもあります。凄腕のくのいちのように本屋から本屋へと飛び移っていると、カレーのスパイシーな香りが鼻腔を通り抜けました。同時にお腹がくぅと鳴ります。抗いがたきカレーの誘惑に屈服して、その日の私が辿り着いたのは、薄暗い裏路地にある小さなカレー屋さんでした。横長の看板に『ワサミや―レカ』と謎の呪文が書かれていますが、右から読むと『カレーやミサワ』に変身します。

 その日は雪が降りそうなくらい寒かったと記憶しています。ところが可愛らしい木製のアーチ型扉を潜った途端に、もわりとした熱気に包み込まれました。壁際には観葉植物の鉢がみっちりと並んでおり、赤道直下の原生林に迷い込んでしまったのではと疑いたくなるほどに、一面が濃い緑色をしていました。そこは常夏のカレー屋さんでした。

 他にお客さんの姿はありません。暑さに負けてコートを脱いでいると、奥の厨房から恰幅のいいお爺さんが現れました。紅白のねじり鉢巻きと海よりも青い法被はっぴが印象的な人でした。

「うちは夏野菜カレー一筋だよ」と、彼は威勢よく言いました。

「では夏野菜カレーをひとつお願いします」

「あいよう、夏野菜カレーお待ち!」

 私は電光石火の職人芸を目の当たりにしました。注文した料理がすぐに出てくるなんて夢のよう。空腹の人間にとってこれほど嬉しいことはありません。紫のナスと赤いトマト、緑のピーマンと黄色いトウモロコシ、緑色はオクラもあります。色彩豊かなベジタブルを従えて頂点に君臨しているのは、なんと半熟卵さまです。食べずとも分かる美味の権化がそこにいました。

 見ても美味、食べるともっと美味、夏野菜カレーとはまこと装丁の美しい名作小説のようなものです。ひとときの夏に惑わされ、私は今の季節が冬であることをすっかりと忘れていました。

「ごちそうさまでした」

 虹色に輝くベジタボークラウンを戴冠したカレーの神様に感謝を伝えたい一心で、入念に手を合わせます。とてもとても、おいしゅうございました。

「君は、良い子だねぇ」

 しんみりとした声に顔を上げると、ねじり鉢巻きの店長さんが両目に涙を浮かべていました。
 何をそんなに悲しんでいるのでしょう。こんなに美味しいものを作ってくださる立派な人を悲しませるものなんて、この世にあまりないと信じたいです。

「実は、この店は今日限りで閉店なんだ」

「それは……、残念です」

 この上ない悲劇を知ってしまった私も悲しくなり、空になった夏野菜カレーのお皿を今さらながら目に焼きつけようとします。ですが、あの夢の島のような御馳走はもうありません。もう一度注文すればまたあの楽園の景色を見られるでしょうが、自棄になって暴食に走ることは、作ってくださったこの方を冒涜する行為に他ならないでしょう。

 なかなか席を離れる気になれず、悶々と葛藤していると、店長さんが一束の分厚い冊子を差しだしてきました。青い表紙の真ん中に砂浜のような染みがあるのは、年季が入っている証です。

「ここには私の人生が詰まっている。閃いたことはなんでもここに書き記してきた。秘伝の夏野菜カレーのレシピも書いてある。どうか、君が受け取ってくれないか」

 私は驚いてしまって、両手を振って断らせていただきました。

「そんな、恐れ多いです。誰かに託すのだとしても、常連さんに渡すのが道理ですよ。それに味の後継者を探しているのなら、お子さんや知り合いの料理人はいらっしゃらないのですか」

「息子も孫もいるよ。だけど店を継がせる気はない。私は店を残したいんじゃなくて、自慢の味を誰かに覚えていてほしいだけなんだ」

「ですが」

「君のような子に覚えていてほしいんだ」

 店長さんは本気でした。恐る恐る手を伸ばし、彼の覚悟を受け止めます。

「ありがとう」

 そのあと私は本屋巡りを続ける気になれず、府中の下宿屋に帰るとすぐさま自室の机に向かい冊子を開きました。思いついたことを本当に何でも書いていたようで、店長さんの男らしい文字が紙面を埋め尽くしていました。中でも夏野菜カレーのレシピは数ページに渡って認められており、目を通しているうちに彼の情熱が押し寄せてきて、涙が溢れそうになりました。

 気持ちを落ち着けてから次のページをめくると、急に全体が白くなりました。
 それまでは余白を惜しむようにぎっしりと書き込みがあったのに、そのページにはただ二つの文章だけがありました。

 竹林の島でフラペチーノを飲む小説家

 魔法図書館で夏野菜カレーの夢を見る姫君


 はっとして首を巡らすと、一架、二架、三架、四架──と無数の本棚が並んでいます。下宿屋の中にありながら果てしない奥行きを感じられる私の部屋は、下宿屋の皆さんから『魔法図書館』と呼ばれているのです。

 しかし、なぜ先ほど知り合ったばかりの店長さんが魔法図書館を知っているのでしょうか。自惚れでなければ、「魔法図書館で夏野菜カレーの夢を見る姫君」などこの世に二人といないのです。

 これは私を指している。

 そう確信すると心がざわつきました。

「するとこの『竹林の島でフラペチーノを飲む小説家』は、まさか……」

 それこそ思い過ごしであると首を振り、この日はひとます冊子を閉じることにしました。

 

       *

 

 翌日は高校の登校日でしたが、私は放課後になると制服姿のまま神保町へと向かいました。人の流れをするすると抜け、昨日と同じ裏路地に入ります。夏野菜カレーのお店があった場所に着くと、たちまち途方に暮れました。

 私を待っていたのは『三澤古書店』でした。

 店名も然る事ながら、昨日訪れた場所とは外観がまったく違います。僅か一日の間に入り口は硝子製の自動扉へと変わり、そこから見える店内には名前の通りたくさんの本が並んでいました。
 ほぞを固めて店内に入ると、一匹の猫さんが出迎えてくれました。虎柄の彼はニャアと鳴き、私の足元をくるりと一回りするとニャア、さらにダメ押しのニャアを言い残してゆらゆらと本棚の陰に消えていきます。

「ごめんください」

 返事はありませんでした。しかし店の奥まで行くと、本が山積みになったレジカウンターの中に柳の枝ように細いお爺さんが座っているのでした。夏野菜カレーを作ってくださった店長さんとは別人です。「本、見させていただきますね」と言うと、微かに頷いたように感じられました。

 昨日はカレー、今日は古書の匂い。これほどまでに様変わりするはずがないのでやはり道を間違えたのでしょう。私は冷静になるために、大好きな本の世界を冒険しようと考えました。レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』が目に留まりました。夏野菜カレーの店長さんとはもう会えず、長いお別れをしなければならないのでしょうか。もっとお話をしておけばよかったと後悔の念に駆られます。

「いえ、道を間違えたのだから、今すぐ会いに行かなければ」

 そうして踵を返し、外に出ようとしたところで、一冊の本が私を引き留めたのです。

 その本は無造作に積まれたダンボール箱の上にぽつんと取り残されていました。

 表紙の中央に大きな茄子が描かれています。竹串が四本刺さって自立しているので、どうやらお盆に御先祖様を乗せて旅する茄子の牛のようです。お腹には四角い穴が開いており、そこにタラップ車が接続されています。まるで茄子の牛を模してつくられた飛行機です。タラップ車の階段を、男の人が手を振りながら降りてきます。目を凝らすと茄子の表面はブリキ板を繋ぎ合わせたようになっていました。

 背景には、サルバドール・ダリの絵画『記憶の固執』に描かれているような、柔らかい時計がいくつか浮かんでいます。そこまで認識してはじめて、この茄子はタイムマシンなのだと尤もらしい推測に至りました。

 本のタイトルは『熱帯』でした。
 私を魅了し、そして消えてしまった佐山尚一さんの小説と同じです。
 ページを捲り冒頭を確認すると、やはりこう書かれていました。

 

 汝にかかわりなきことを語るなかれ

 しからずんば汝は好まざることを聞くならん

 

 作者は佐山尚一さんではなく、三澤太郎という人物でした。私が知っている『熱帯』とは違った内容ですが、佐山版の『熱帯』を引用したと思しき文章が散見されたので、きっと三澤太郎さんもまた『熱帯』の奥地に迷い込んでしまった私の仲間なのでしょう。

 私たちは『熱帯』を追い求める同志であり、同時に他者と永遠に交わることのできない一匹狼でもあります。三澤版の『熱帯』にも激しい孤独感を窺わせる場面がありました。

 この孤独を仮初めにも埋めることはできないのか。
 そう思っていると、ある一文が私の前に現れました。

 

 満月の魔女はすべてを語り得る

 

 それは救いの言葉のように思われました。寂寥と不安とを感じさせる秋の夕暮れの中をただ一人で歩き続け、泣きたい心持ちでいるところにお母さんが迎えに来てくれたような、胸の奥底から湧きだす喜びに似ていました。

「満月の魔女」

 私は呟き、彼女の元へ行ってみたいと願いました。
 そうして古書店にいるのも忘れて小説の世界に没頭していたのですが、ふいにナイフの一刺しのような鋭く冷たい声をかけられました。

「それ以上読み進めない方がいい。然もないと『熱帯』に吞み込まれてしまうよ」

 気づけば私は全身にひどく汗をかいていました。まだ冬の真っ只中だというのに、天井に備えつけられている扇風機が首を振り、青い羽根を高速で回しながらぬるい空気を攪拌しています。

「好奇心ってのは猫を殺すんだ。強すぎる好奇心は虎だって殺すさ」

 三澤古書店の店長さんが私を見つめていました。その目は哀憐の色をしていました。

 私は彼に問いました。

「この小説は、店長さんが書いたものですか?」

 彼は静かに言います。

「そいつの作者はもうどこにもいないよ」

 誰かに監視されている──。奇妙な気配を感じて振り返りましたが、後ろには誰もいません。私は汗ばんだ手で鞄を探り、託された冊子を取りだしました。

 染みと日焼けとが独特の模様になったその表紙には、三澤太郎と書かれていました。

 

       *

 

「かつて私たち人類は人の言葉を解する猿でした。まだ本当の意味で人間になれずにいた私たちに〈創造の魔術〉を与えたのが満月の魔女です。私たちは妄想する猿になり、やがて人間になりました」

 水谷さんは白波に洗われた砂浜のようにすっと表情を変え、あたかも異邦の地で見上げる月のような美しい笑みを浮かべた。

「私たちは彼女より授かった恩に報いたくて、語るのです」

 彼女の飛躍した論理には飯田先輩もついていけないようだった。カレー屋の中はすっかり静まり返り、何かに期待する衆人環視の中で飯田先輩はじっと眉間を押さえていた。

「なんとも謎めいているな。そして君という人もまた、俺にとって大きな謎だ」

 彼は顔を上げ、水谷さんを真っ直ぐ見据えた。

「一つ確認したいことがある。君が託された冊子には『竹林の島でフラペチーノを飲む小説家』と書かれていたようだが、その人に心当たりがあるのでは?」

 水谷さんは頷いた。

「はい。私はあの時、小説家の森見登美彦先生を思い浮かべました。そして最近、ある信頼すべき筋から森見先生が『熱帯』という小説を執筆しているとの情報を入手しました」

「やはりそうか。竹林と聞いて、俺もまず森見さんの顔が思い浮かんだよ」

「森見先生といえば、光り輝く竹の中から生まれたことで有名ですからね」

 森見登美彦という小説家については僕も知っていたので、思わず「そんなまさか」と驚きの声を漏らしてしまった。「信じられない」

 すると水谷さんは澄ました顔で「嘘ですよ?」と言った。

「すみません、さらりと嘘をついてしまって」

 ところが僕は「信じられない」と言っておきながら、嘘でなければいいとも思っていた。水谷さんは嘘だと言ったけれど、本当のところは嘘ではないのだ。森見登美彦という人は竹から生まれ、かぐや姫がそうであったように、いつかは満月へと帰っていくのだ。

 不思議な物語を携えて。

 僕の密かな妄想を知ってか知らずか、水谷さんは口に手を当て「ふふっ」と肩を揺らした。「私たち妄想家は、いつか満月に帰る運命なのでしょうね」と言った。

「私は小説家になりたくて岡山にやってきました。ここには面白おかしい伝説がたくさんある。森見登美彦先生が京都という鋭い刃を持っているように、私も武器が欲しくなったのです。文章力も妄想力も、あの人にはまだまだ敵いませんから」

 彼女は僕より一年下の後輩であるのに、その前向きな姿勢はとても眩しく感じられた。
 一年前の僕はどうだったろう。大学に入学したばかりのころ、どれほどの夢を見ていただろうか。

「私が『熱帯』を書くのは純粋に書きたいという気持ちもありますが、森見登美彦先生へのささやかな挑戦でもあるのです」

 この瞬間、僕は獰猛な虎になって、茫洋たる荒野をあてどなく駆け回りたいと思った。僕が持つ僕だけの『熱帯』を完成へと導きたかった。

「水谷さんの『熱帯』が完成したら、是非とも読ませてもらうよ」

 だから僕は言った。

「だから今は、僕の物語を聞いてくれないか。僕が語ることで、君の『熱帯』は新たな姿を見せるかもしれない」

 彼女は目を瞠り、朝露を浴びた野ばらのように優しく微笑んだ。

「ええ、是非。あなたの話を聞かせてください」

 この場にいる全員が、僕が語り始めるのを待ち望み、視界の隅では真っ赤な達磨がほくほくして満足げであった。

 熱い潮風が吹き抜けた。

 

       *

 

 かくして僕は語り始め、ここに『熱帯』の門は開く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?