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【JAXAご退職によせて】野口聡一さんが語る宇宙飛行士のリアルと未来

去る5月20日の夕方、そのニュースは突然流れてきた。「宇宙飛行士の野口聡一さん、JAXA退職へ」。各紙、ネットニュース、テレビなどが報道し、全国大手紙には「理由は25日の記者会見で明らかに」といった、気を持たせる見出しも立った。
 もちろんご本人の口から何が語られるか、いま(5月22日)はわからないが、ここでは野口さんの次なる挑戦について、『宇宙飛行士 野口聡一の全仕事術』(世界文化社刊)の編集担当・原田が、一部抜粋しながらご紹介する。

野口さんの本を企画した理由

 私は2021年12月に発売された、『宇宙飛行士 野口聡一の全仕事術』の編集を担当した。野口聡一さんは、2020年11月から2021年5月にかけて、自身3度目の宇宙飛行をし、国際宇宙ステーション(ISS)に約5カ月半滞在した。その様子は過去2回の宇宙飛行(2005年、2009年)とは比べ物にならないほど、鮮明に、リアルタイムで地球の私たちに伝わっていた。地球と宇宙をつなぐテレビの生中継、Twitter、Instagram、YouTubeなど、東京とアメリカをつなぐのと同じような感覚で、地上400kmのISSとつながっていることを、多くの人が実感したことだろう。

 これらの配信を見て、私はまず野口さんのお人柄に魅了された。野口さんがアップした画像には、飄々としていながらも、人を笑わせたい、誰もが理解できるように教えたい、そんな人間味が溢れていた。
 3回目のフライトで、野口さんは民間の宇宙船・クルードラゴンで地球とISSを往復した。これは、世界初の本格挑戦だった。アメリカのNASAやロシアのROSCOSMOSといった国家事業ではない。誰も経験したことのない民間事業で、その宇宙船はどんな様子だったかも知りたかった。
 さらに、経済番組でISSから野口さんが語った「宇宙での仕事は“究極のテレワーク”」というフレーズが強く印象に残った。折しも、日本をはじめとする全世界でコロナ感染が急速に拡大し、多くの人が慣れないテレワークを行っていた。自由に外出もできなかった。これまでの仕事のやり方が通用せず、「言わなくても分かる」という日本人特有の文化もガタガタと崩れていった時期だった。

 そこで、これら3回目の宇宙飛行の経験を、現代の人たち、とくにビジネスマンに役立つ1冊としてまとめたいと思い、野口さんが無事地球に帰還した直後の5月中旬、書籍の企画書を送ったのだった。

スペースX社の「クルー・ドラゴン」内はすっきりとスタイリッシュ。今後ますます注目度が増す
民間人の宇宙観光にもふさわしく、大きな窓がとられている。(ⓒNASA)
国際宇宙ステーションのキューポラから見る青い地球。(ⓒNASA)

宇宙飛行士の”光と影“に迫らなければ「全仕事術」ではない

『宇宙飛行士 野口聡一の全仕事術』は、第1章「究極のテレワーク」、第2章「こちら、国際宇宙ステーション!」、第3章「心と体の安定を求めて」、第4章「宇宙旅行は夢ではない!」、第5章「宇宙飛行士の内面世界を見つめる」で構成されている。
 私が考えた最初のプロットは、じつは第4章で終わっていた。しかし取材を進めるなかで、取材・文をお願いした共同通信社の垂見和磨さんから、第5章がないと「全仕事術」にはならないという指摘があった。

 野口さんは2回目の宇宙飛行を終えたあと、東京大学の先端科学技術研究センターの研究員となり、当事者研究を行っていた。垂見さんはシンポジウムでの発言や博士論文を読む込み、華やかな世界にいるとばかり思っていた宇宙飛行士が、現実には大きな仕事を成し遂げたあとに“燃え尽き症候群”に陥ったり、引退後のセカンドキャリアに悩みを抱えていることに深く関心を寄せ、この重要な点に触れないと、ただの“成功者”としての野口さんしか描けない、とアドバイスをしてくれたのだ。

 そうして第5章の原稿が上がってみると、なるほど、この章がなければこの本は成立しなかったと感じた。エピローグには、宇宙飛行が今後進む方向にも触れられている。

 以下に第5章とエピローグから、一部を抜粋して公開しよう。野口さんがJAXAを退職し、次なる道を歩み始めるきっかけを感じていただけるだろう。

宇宙へ行くことは危険と隣り合わせ。緊急事態に備え、事前の訓練やシミュレーションを
くり返し行う。これは地球帰還時、「クルー・ドラゴン」が水上着陸した時の緊急事態に備えた
避難訓練の様子。(ⓒNASA)

第5章「宇宙飛行士の内面世界を見つめる」から

「野口さん、お帰りなさい!」
 2021年7月9日。東京都内で帰国記者会見に臨んだわたしは、詰めかけたマスコミ関係者から無事の帰還をねぎらううれしい言葉を次々といただいた。なかには、こんな気の早い質問も飛んできた。
「野口さん、まだ帰ったばかりで申し訳ないですけれども、次に宇宙に行く機会があったら、何をしたいですか」
 質問を受けたわたしは「まさにいま戻ってきたばかりで」と苦笑いを浮かべながら、「宇宙にいるときには『早く地球に戻りたいなぁ』と思い、戻ってきた途端に『次はいつ行けるんだろう』と思う。もう過去3回繰り返しているんですが」と軽口をたたいて場内の笑いを誘った。そして、思い浮かぶままこう語っていた。
「次、何に乗れるかな。それは月に行く宇宙船かもしれないし、月に観光客をいっぱい乗せて飛ぶ観光宇宙船かもしれない。いずれにしても、いままでやってない、できれば違う宇宙船で再び地球の重力を振り切って外に出て行けるといいなと思っています」
  おそらく、正直なところ、ここまで話すのがわたしには精いっぱいだったように思う。

 3度目のフライトから地上に帰還しておよそ2カ月。一般的に宇宙飛行士の体は長期の宇宙滞在で筋力の低下や骨密度の減少がみられる。そこで、地球の重力に体を慣らしたり、栄養面でのフォローをしたり、45日間のリハビリテーションプログラムで身体機能の回復をさせたりしないと、すぐには地上の日常生活に戻ることはできない。

 帰還した宇宙飛行士のなかには、体調ばかりではなく、宇宙ミッションに代わる目標を見いだせなくて精神に不調を来し、適応障害になるケースすらある。それだけに、帰還して間もなくは注意を要する。
 わたしは、じっくりと時間をかけて、気持ちと記憶の整理をしようとしていた。次に何をするかを考えることも大事だが、いまやっておきたいこともある。それは、3度にわたる貴重な宇宙飛行を経験したわたしの内面をのぞき込み、そこにどんな変化が起きているのかを探ること。わたしは、それを見つけるために宇宙に行ったはずだからだ。

野口さんは2021年5月2日(アメリカ時間)、フロリダ州の海に水上漂着、地球に帰還した。
無重力状態で5カ月半ほど過ごしたため、すぐに自力歩行はできない。(ⓒNASA)

立花 隆さんがもたらしてくれたもの

クルードラゴンでの帰還を目前に控えていた4月30日、ジャーナリストの立花隆さんが80歳で亡くなった。
 立花さんの著書『宇宙からの帰還』と高校生のころに出会い、宇宙飛行士を志すきっかけをつくってくれた。今回、クルードラゴンに高校時代に買い求めた初版本を乗せて一緒に宇宙を旅したくらい、片時も手放せない座右の書だ。立花さんがあと数年ご健在だったら、宇宙の旅を体験していただけたはずだった。今回のわたしのミッションで、ようやく民間宇宙旅行の扉が開かれたのだ。それだけに、立花さんの死は、悔やまれてならない。

 わたしが立花さんと初めて会ったのは、2005年の初フライト後の対談の席だった。宇宙体験をわたしがどういう言葉で表現するのか、真剣に聞いてくださった。どれだけ宇宙に滞在したのか、そこでどのような作業をしたのかといった記録は、NASAもJAXAも当然ながら残している。しかし、そのようなデータではなく、立花さんはその時々にわたしがどのように感じ、そのことをどう表現するのかに着目していた。宇宙飛行士の内面世界に迫り、その変化をたどろうとしていたのだ。
『宇宙からの帰還』が出版された当時(1983年)は、現役引退後の宇宙飛行士のほとんどがNASAや航空宇宙産業にとどまっていたから、証言できる対象者は少なかったかもしれない。宇宙飛行士の内面的な体験をたどるという問題関心も決して熟していなかった時代だけに、精神面への影響をくっきりと浮かび上がらせたこの本は、画期的なルポとなった。

『宇宙からの帰還』は、宇宙飛行士にバラ色の未来が待っているとは限らないことも、若いわたしに教えてくれた。宇宙飛行士の内面の苦しみや挫折をリアルに伝え、そこから立ち直るドラマも描かれていた。それがわたしには幸いしたように思う。宇宙に飛び立つまでのわたしの道のりは、決して平たんではなかったからである。

 大学生時代、スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故(1986年)に遭遇し、宇宙飛行が決して安全な世界ではないことを思い知らされた。2003年のスペースシャトル・コロンビア号の爆発事故では、宇宙飛行士の同期生や友人たちをあえなく失った。軽い気持ちで見送った仲間が帰還して来なかったという現実を突きつけられ、がく然としたのである。
 わたしは、スペースシャトルの次のフライトに搭乗する予定だったから、自分にもこうした不幸は起こり得るのだと身につまされる思いにかられたのだ。

 NASAのスペースシャトル計画はその後、2年半にわたって中断されている。この猶予期間がわたしにとって宇宙飛行と向き合える心の準備期間になった。もしも猶予なく次のフライトを命じられていたら、わたしはその任務から降りたかもしれない。実際、コロンビア号の事故直後、引退を表明する宇宙飛行士が何人もいた。
 こうした不安をいつも抱えながら3度のフライトを重ねてきたけれども、立花さんの本が心の糧となり、困難を乗り越えられたといまでも思っている。

 この本が教えてくれたことがもうひとつある。NASAやJAXAは「人類が宇宙空間のどこまで到達できるか」を追い求め、国家事業として成果を出すことを主眼に置いている。立花さんはその目的志向性にとらわれた宇宙開発に疑義を唱え、国家政策としての成果ばかりではなくて「宇宙飛行が人類にどのような精神的インパクトをもたらすのか」という視点からずっと問いかけを続けていた。宇宙開発の成果は、具体的にどういう形でわたしたちの精神的な世界に寄与しているのか。それを宇宙飛行士に繰り返し問うたのだ。

 その影響だろう、わたしが自分自身の内面世界を探求する研究をライフワークとするようになったのは。宇宙から帰還するたびに、自分の内面に起きた変化を立花さんのように正確に、分かりやすく伝えたいといつも心がけた。本書を執筆したいと思い立ったのも、立花さんの死去と向き合い、3度目のフライトで何が起きたのか、残しておきたいと思ったからである。
 なかでも、2度目のフライトの後に体験したあの心の葛藤がふたたび訪れるのか、わたしは自分自身に問いかけていた。

地球に帰還して約半年後、ワシントンD.C.にある国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館を訪問したときのひとコマ。(ⓒNASA)

待ち受ける引退勧告

 あれは、2度目のフライト(2009〜2010年)が終わった後のことだった。当時、滞在日数や船外活動は日本人最多を記録。やり尽くした感じがわたしのなかにあった。
 1度目のスペースシャトルでの短期フライトは、自分自身でかなえたかった夢の実現であった。それに対して2度目の宇宙飛行は、ちょうど日本が威信をかけてつくり上げた日本実験棟「きぼう」が稼働し始めたころで、日本のプライドをかけた長期滞在ミッションであったといえるだろう。わたしはその期待に応えるべく、宇宙での約半年にわたるミッションを成功させていた。
 そのころのわたしは、2度にわたる宇宙飛行を終えて、大きなものを成し遂げたという達成感に満たされていた。一方で、これから先にまだ目指すものはあるのか、まだモチベーションは続くのか、と自問自答する日々を送っていたのである。
 実際、国際宇宙ステーションの長期滞在まで経験できたのだから、宇宙飛行士を辞める選択肢もあると意識していた。翌2011年にスペースシャトルが退役し、アメリカが自前の有人宇宙船を持たなくなると、わたしと一緒に訓練をしたアメリカ人宇宙飛行士の仲間たちは次々と引退していった。スペースシャトル計画が終わるというひとつの時代の節目に、確かにわたしは立ち会っていた。
 転職社会のアメリカでは、宇宙飛行士は職業のひとつにすぎない。わたしが宇宙飛行士候補者に選ばれ、NASA宇宙飛行士養成クラスに入ったのはおよそ25年前。その後、同期生44人のほとんどは民間企業に転職し、その多くが成功を収めている。その転身ぶりに、うらやむ気持ちもないではなかった。
 宇宙飛行士の転職には、日米ともに共通する事情がある。ひと言で言えば、宇宙から帰還した宇宙飛行士の第二の人生をサポートする体制が手薄いということだ。宇宙に飛び立つ前の準備期間と飛行中は手厚いサポートに恵まれ、多くの人からも注目を浴びる。しかしミッションを終えて地上に戻ると、そこからはまるで忘れられた状態になってしまう。もちろん、ほかの飛行士のミッションを手助けする地上支援業務はあるが、引退の道を歩む人も少なくなく、そこから先は〝自助努力〞ということになる。
 わたしは、2度目のフライトを終えた2年後の2012年、アメリカ・ヒューストンから日本に戻り、テレビの報道番組でキャスターを務めたり、執筆活動に取り組んだり、第2章で述べたように国際連合の仕事に従事したりした。
 それでも、宇宙飛行に見合うだけの人生の目標が見つからず、模索が続いた。それはまさに、「燃え尽き症候群」ともいえるような長いトンネルの中をさまよう日々だった。

宇宙飛行士の内面を凝視する

 なるほど、宇宙飛行士とアスリートが属する世界はとても似ているとわたしも思う。ともに国の威信を背負い、多額の予算をかけて育成され、プレッシャーのかかる本番を迎えると超人的な能力を発揮してミッションに取り組む。成功すれば、国民のみならず世界中の賞賛を浴びることになる。ただし、本番が終われば、〝普通の人〞になってしまう。あまりにも落差の激しい日常に戻らないといけなくなり、将来のビジョンがなかなか思い描けない点もひどく似ていた。
 
 わたし自身を見つめ直してみると、宇宙ミッションがいかに特別な時間だったかが分かる。長年にわたる過酷な訓練を受けて、いざ地上から飛び立つと、重力のくびきから解き放たれたおかげで、家庭用冷蔵庫くらいの重い機器でも片手ひとつで持ち運びができるし、ちょっと弾みを付けただけで水中を泳ぐようにスイスイと移動できてしまう。まるで身体能力が一気に拡張して並外れた力を備えたように感じられ、そんな生活が半年も続くとついその超人的な生活に慣れてしまう。すると、地上に戻ってからが大変だ。筋肉量や骨密度、視力の低下や平衡感覚の喪失といった身体上の障がいが生じてしまう。船外活動という死と隣り合わせの過酷なミッションを経験したために、地上に戻っても当時の心理的体験がフラッシュバックして精神を不安定にさせることもあった。
 あるいは地上でふたたび五感の認知機能が高まったために、宇宙船の生活では得られなかった地上の鮮明な景色や、多くの人々とダイレクトにコミュニケーションをとることによって得られた大量の情報が一気に押し寄せて五感が麻痺し、しばらくクラクラしてしまう経験もした。

 こうした症状は相当のリハビリ期間を設けて回復させないと、いつまでも非日常の感覚のまま暮らすことになり、自分自身をしっかりと取り戻せない事態にもなりかねない。
 ただし、わたしは宇宙と地上を3度行き来しているうちに、完全に地上にいたときの自分に戻るのかというと、そのようなことはないと思うようになった。その差異を、当事者の立場を生かして、できるだけ客観的な研究手法で明らかにしたいと考えるようになった。

 というのも、世の中やインターネット上にあふれているデータや最新理論をどんなに解析しても、当事者の内面には迫れないと思うのだ。実際の体験を通じて得た自分自身の内面世界というのは、誰からも壊されない、自分自身の得たものとして確実に残っているからである。

エピローグより~宇宙飛行の未来像

 わたしはいま、実に面白い時代に居合わせていると思っている。スペースXをはじめ、民間の宇宙企業が続々と参入し、今後の10年、20年を引っ張っていく新しいプレーヤーたちがメキメキと力を付けている。

 民間企業だから相手はひとつの国に限らない。国家と国家の垣根を越えて、世界的な視野で宇宙事業に携わることができる。単に日本代表とかアメリカの宇宙船とか言っている場合ではない。地球規模なのだ。全て初ものは「世界初」になる。そういう意味でいえば、わたしの3度のフライトは、1回目は「自分初」、2回目は「日本初」、3回目は民間宇宙船によって「世界初」を遂げたといえるのかもしれない。

 2022年1月、アメリカの宇宙企業アクシオムスペースは民間人4人を国際宇宙ステーションに運ぶ予定だ。船長を務めるのは、NASAを退役した元宇宙飛行士。軌道上の周回飛行となれば、やはりプロの水先案内人が必要になる。
 数分間に限った宇宙空間のフライトと違い、滞在日数が多くなる本格的な宇宙飛行では、何か異常事態が起きたとき、自動操縦に任せておけないこともある。深い知識を持ったプロの宇宙飛行士が対応することで危機を乗り越えられることもあると思う。

 わたしは将来、そんなプロの水先案内人の仕事に就いているかもしれない。宇宙観光旅行時代が進むにつれ、経験者として関わっていく道はどんどん広がっていくはずだ。

野口聡一さん。1965 年、神奈川県生まれ。96 年、宇宙飛行士候補に選出。98 年、NASAミッションスペシャリストとして認定される。2005年、アメリカのスペースシャトル・ディスカバリー号で自身初の宇宙飛行に成功。3度の船外活動をリーダーとして行う。2009 年、ロシアのソユーズに搭乗し、2度目の宇宙飛行を行い、国際宇宙ステーション(ISS)に約5 か月半滞在。2020年、日本人で初めて民間宇宙船クルードラゴン初号機(Crew-1)に搭乗、ISS に166日間滞在し、4 度目の船外活動や「きぼう」における様々なミッションを実施した。ツイッターやユーチューブで宇宙から積極的に発信、リアルな宇宙での暮らしを地上に届け、大きな反響を呼んだ。(ⓒNASA)

野口聡一さんは、6月1日付でJAXAを退職する。それに先立って5月25日に行われる記者会見の模様は、改めてこのnoteで紹介する。

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