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私の「小田原日帰り旅」の定番/沢野ひとし

 町田に住んですでに五十年近くになるが、何かというと小田急線で小田原に出かけていた。まずは駅前にあった「八小堂書店」に足を運び、気分を「小田原モード」に切り替える。次に「伊勢治書店」に、さらには古本屋と、書店巡りが始まる。私の旅は、「書店」「文具店」「楽器店」と流れ歩くのが常である。でも現在はどの店も閉店してしまった。

地図

 小田原は温暖な気候で、訪れると体調もすこぶる良くなる。山の幸も海の幸も充実していて、何を食べてもおいしい。夕暮れには明治二十六年創業の老舗「だるま料理店」で、天丼かちらし寿司がお決まりのコースである。
 私の小田原土産は、鯵の干物、ミカン、ういろう、かまぼこ、きび餅といったところが定番だ。

だるま料理店


 帰りは小田急ロマンスカーで夢心地になる。何度も寝過ごし、新宿駅で駅員に「お客さん、終点ですよ」と肩を揺すられハッとするのもいつものことで、懲りずに新宿で「もう一杯」となるから、家に帰りつく頃は決まって千鳥足である。

小田原城

 小田原出身の作家といえば、かの川崎長太郎もその一人。海岸沿いの物置小屋に潜み、色街に通う初老男の悲哀を描いた『抹香町』で評価を得た。私小説の極致といえる作品で、味わい深く、戦後のあっけらかんとした空気と、時にユーモアを感じる。
 作品に何度も登場する抹香町(まっこうちょう)は、色街の名残をとどめる平屋が数軒残るだけで、現在は閑静な住宅街となっている。私もそうだが、川崎の文庫本を手にさまよい歩く愛読者は今も多い。
 昨今は、私小説は時代遅れと評する風潮もあるが、湿気の多い日本の風土とジメジメした私小説の相性はよく、廃れるものではない。

根府川駅

 東海道本線の小田原駅から早川駅を過ぎ、いくつかのトンネルを抜けると、相模湾の海原が眼に飛び込んでくる。次の根府川(ねぶかわ)駅は詩人の茨木のり子で有名になった。青い海と駅に咲く赤いカンナの花を詠った美しい詩がある。

『根府川の海』
根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅

たっぷり栄養のある
大きな花の向こうに
いつもまっさおな海がひろがっていた
(~中略~)

 この詩に導かれて根府川駅で下車する人が絶えない。人は皆、海を見つめて立ち尽くすが、海は沈黙したまま何も答えてくれない。

(~中略~)
海よ

あなたのように
あらぬ方を眺めながら……。」
※岩波文庫『谷川俊太郎選 茨木のり子詩集』より引用

 と詩は終わるが、また最初から繰り返し唱えてみるのだ。

 この根府川駅で無料のシャトルバスを待つことにする。「小田原文化財団 江之浦測候所」に向かうバスだ。そもそもこの江之浦測候所とは一体何なのだ?
 江之浦測候所は、世界的な写真家・美術作家である杉本博司の作品とコレクションを展示する庭である。広大な敷地にはギャラリー、野外舞台、さらに茶室などが点在する。測候所というだけに、冬至の朝と夏至の朝、相模湾から昇る太陽の軌道上に建てられた「冬至光遥拝隧道」と「夏至光遥拝100メートルギャラリー」が象徴的である。

建物の中を光が走る

 その作品群のレベルの高さに唸る。古い石、木、金属、光学ガラスを無造作に使い、贅沢極まりない。新素材に対する飽くなき探求心と古美術に対する深い造詣。杉本博司の美意識は止まることなく日々進歩している。その空間に身を置いてみると、驚愕に体が震え「本物とはこういうことか」と納得する。
 あまりに素晴らしいので、二度目は娘を連れて訪れた。娘は「ここは美術館? 庭園? 大人の公園?」と興奮していた。相模湾の青い海に青い空が重なり、忘れることのできない思い出の地である。

十三重塔

文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん/作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)、『中国銀河鉄道の旅』(本の雑誌社)、『ジジイの片づけ』(集英社)、絵本「一郎君の写真 日章旗の持ち主をさがして」(木原育子/文・福音館書店)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。3月15日に最新刊『真夏の刺身弁当』(産業情報センター)刊行。電子書籍『食べたり、書いたり、恋したり。』(世界文化社)もぜひご覧ください。
Twitter:@sawanohitoshi