#112 退屈を凌ぐ力は一生涯役立つスキル(かもね♡)

皆さん、お久しぶりです!PCが半壊しており暫くの間NOTEでの文章作成が滞っておりました…

さて、7月は下旬に差し掛かって参りました。これからがザ・夏って所ですね。

そんな中私は軽い虚無を覚える時期にさしかかっていることをここに報告します(笑)

これは季節病的な部分なのですが、毎年このくらいの時期(わかりやすく言うと小学生の夏休みの前半位)に軽いうつっぽい感じになるわけです。

うつといっても、殆ど深刻なわけではなく、大抵の場合は一過性でただただ虚無な状況が一週間前後続くというもの。

以前より冬になるとうつっぽくなる話を以前したと思うのですが、夏に一瞬訪れるこのうつは冬のそれとは違ったタイプのもので、虚無心の中に漠然とした焦燥感がつきまとうというものです(悲しいというより虚しいという感情が正しいでしょうか)。

この夏のうつに気づいたのは小学校六年の時で、夏休みに入って家で過ごしている際に(それとはおそらく関係のない)孤独感を覚え、いやに世の中が単調でつまらないものに思えてきたり、自分自身が明確な得意分野や趣味、夢がないこと、持ちたいという気持ちがないことへの焦りも同時に出てくる状況にヤキモキしていました。

まあそれが翌週にスッと解決したんですよね(そのときのエピソードについても今度書きたいと思います)。結局あれから何年か経ちましたが、確かに自分が得意だと言える部分は明確にあると言えるようになり、趣味ではなくともやっていて楽しいと思えることは山ほどあると、好きなモノも沢山あります。夢というのは自分なりに再定義して、一つの大きな目標を持つのではなく小さな夢を複数個持っておくことで日々楽しく凄く工夫をしています。

そんな私でも、やはりこの時期にきてふとあらゆることが虚無と化す瞬間を悟るんですよ!

もう流石に自分では時期的な流れと理解しており、最近では『あーこれ虚無来たな』位の認識に留めて置いて、深みにはまらないようになりました(笑)。

そのおかげで今はその時期真っ只中ではあるものの大してダメージを受けずに穏やかに過ごせております。

そして同時にうつというものの持つ性質について、あくまで一側面ではありますがいえることがあります。

それは、うつとは退屈なものであるということ。

夜のお供をしてくれないパートナーのようなものであるということです。

あるいはどれだけお供してくれていても萎えてしまうアソコのようなもの。

念をおしますが、あくまで一側面としてですよ!!

興味を失ってしまうこと、興奮できないものがあるというのは非常にもどかしいものです。そして人ならばどんな時であれ、この退屈というのが人生の思わぬ側面で敵になってくるわけです。

勉強であれば、退屈はモチベーション低下につながりますし、何かを練習している方であれば高原現象(プラトー)のようなものを覚えることでしょう。仕事であればマンネリになってくるでしょうし、結婚であれば倦怠期といった形で出てくるかもしれません。つまり、退屈は手を変え品を変え、人生のあらゆるステージでその姿を現し、現状にただ疑問だけを投げかけては消えていく、むかつく存在ということです。

なんでもかんでも擬人化して話すのは趣味ではないですが、強調しておきたいのはただ自分の怠慢だけで退屈が生じていると思うのはナンセンスなことだ、ということです。

退屈な時、人生は呆れるほど長く感じる一方で何かに熱中しているときはなんで人生はこんなに短くなくてはいけないのかと感じることさえあるでしょう。

人生設計を考える上で、退屈という時間を勘定しなければどれだけ毎日が刺激的でいいものかとさえ思えてきます。

ただこれは、最近になって改めて考えているのが、この退屈というのが果たして悪役なのかどうか、という部分です。

確かに毎日が刺激的であれば、人は退屈せずに済みます。でも、退屈することさえ許されない位毎日が面白ければ、それはそれで代償をはらうことになるような気がしています。

今の私の生活はどうみたって退屈せずに満足できる術を探そうと思えばいくらでも探せるような生活です。昔の戦国大名さえも私の暮らしぶりに驚き羨むことでしょう。なのに退屈しているということは、これは退屈には理由はないんだというのが正しい解釈なんじゃないか、という風に現時点で結論を得ています。

これは自分がどういう状況に陥っても(つまり、万年夢追い人のような人生を送っていたとしても)似たような退屈は繰り返しやってくるのだから、その退屈に現状や社会の不満みたいな理由をつけちゃいけないんだと思ってるんです。これは風邪を引いて『俺が風邪を引いたのは政治が悪い!』といっているようなもので後から適当な理由をつけているにすぎないんだと思っています。

ということで、熱中できることやものがないから退屈しているのではない、退屈しているから熱中できないだけなんだ、と結論づけるようにしています。つまり、一過性の退屈は、それさえ凌いでしまえばいいという訳です(実際それが何だかんだ難しいんですけどね)。

そしてこの退屈な時に、『必要なもの、追い求める対象は既に自分の中に持っている』と思うことです。これは退屈を紛らわす目的もありますが、退屈が時々もたらす血迷った行動や考えといった副次的な暴走を止めるという目的もあります。

退屈を覚える度に自分探しの旅をしていては旅費がかさむ一方ですからね。

なにもこれは、現状維持を強制するものではないです。人によっては定期的に来る退屈をより現状を客観的に把握し、変化を起こすタイミングと捉えアクションするような賢い人もいます。

自分はそこまで自分を客観的に見れているかどうかは微妙ですし、この退屈を手なづけることで今は精一杯なので、そこまで発展したことはできないですが将来的にはそういう行動を起こせるようになりたいものですね。



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